元和の初めの頃、水野家臣・中川志摩之助の三男・三木之助を養子とし、姫路藩主・本多忠刻に出仕させる。
寛永元年(1624年)、尾張国(現在の愛知県西部)に立ち寄った際、円明流を指導する。その後も尾張藩家老・寺尾直政の要請に弟子の竹村与右衛門を推薦し尾張藩に円明流が伝えられる。以後、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆する。
寛永3年(1626年)播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石藩主・小笠原忠真に出仕させる[注釈 14]。
寛永期、吉原遊廓[注釈 15] 開祖・庄司甚右衛門が記した『青楼年暦考』に、寛永15年(1638年)の島原の乱へ武蔵が出陣する際の物語[注釈 16]が語られ、直前まで江戸に滞在していたことが伝えられている。同様の内容は庄司道恕斎勝富が享保5年(1720年)に記した『洞房語園』にもあり、吉原名主の並木源左衛門、山田三之丞が宮本武蔵の弟子であった旨が記されている。これらの史料に書かれた内容は隆慶一郎などの文芸作品の題材となっている。
島原の乱では、小倉藩主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡藩主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。武蔵塚(熊本県熊本市北区)
寛永17年(1640年)、熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、鷹狩り[注釈 17]が許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。同じく客分の足利義輝遺児・足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年に忠利が急死したあとも2代藩主・細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として、藩士がこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃、余暇に制作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。
水前寺成趣園内にある細川忠利の像
細川氏
宮本武蔵
江戸幕府
寛永20年(1643年)、熊本市近郊の金峰山にある岩戸・霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『独行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えている。大原町(美作国)
正保2年5月19日(1645年6月13日)、千葉城(熊本)の屋敷で亡くなる。享年62。墓は熊本県熊本市北区龍田町弓削の武蔵塚公園内にある通称「武蔵塚」。福岡県北九州市小倉北区赤坂の手向山には、養子伊織による武蔵関係最古の記録の一つである『新免武蔵玄信二天居士碑』(通称『小倉碑文』)がある。
武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門は福岡藩黒田家に二天一流を伝えている。 『五輪書』には「廿一歳にして[注釈 10]都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるという事なし」と記述される。この「天下の兵法者」は、『小倉碑文』に記された「扶桑第一之兵術吉岡」すなわち吉岡家と考えられる。 決闘の経緯は『小倉碑文』の記録を要約すると以下の通りとなる。武蔵は京に上り「扶桑第一之兵術」の吉岡一門と戦った。吉岡家は代々足利将軍家の師範で、「扶桑第一兵術者」の号であった。足利義昭の時に新免無二を召して吉岡と兵術の試合をさせた。
決闘伝説に関する諸説
吉岡家との戦い宮本吉岡決闘之地の石碑(堀正平建立。京都府京都市左京区 一乗寺下り松)
通説