宮崎放送
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2027年の開催が予定されている第81回国民スポーツ大会(国民体育大会を参照)に伴い宮崎県立宮崎工業高等学校第二グラウンド(宮崎県営野球場跡地、宮崎市錦本町)にプールおよび民間施設を整備する計画があり[3][4]、民間施設のひとつとしてMRT新社屋を建設する予定である。2021年6月の県プール整備運営事業者決定時点では「2025年7月完成目標」としていた[5]が、2023年9月時点では「2026年2月完成・同年10月運用開始予定」に変更されている[6]

なお、新社屋移転後の現社屋については、宮崎市が宮崎市役所庁舎建て替え中の仮庁舎として貸借する方針であることを2023年9月に明らかにしており、今後市と当社で賃貸料などの協議を進め合意を目指す。活用期間は2027年1月から約4年間の予定で、MRT社屋の4階から7階(放送局部分)およびMRTパーキングの一部を賃貸する計画となっている[6]。市は「仮庁舎の建設が不要になり、事業費縮減につながる」としている[7]
本社・支社
宮崎本社
〒880-8639 宮崎県宮崎市橘通西4丁目6番7号
JR日豊本線宮崎駅より徒歩15分
都城支社
宮崎県都城市中町13番7号 ライトハウスフェアリー201号室
延岡支社
宮崎県延岡市中町2丁目1番10号 マバラビル3階
日南支局
宮崎県日南市岩崎3丁目4番1号 Ittenほりかわ内
東京支社
東京都中央区銀座6丁目4番1号 東海堂銀座ビル8階
大阪支社
大阪府大阪市北区梅田1丁目11番4号 大阪駅前第4ビル802号室
福岡支社
福岡県福岡市中央区天神4丁目1番18号 サンビル[注 4]
沿革
ラジオ開局まで開局当時の社屋跡の一角にある神宮苑緑地広場にある記念碑(宮崎市下北方町)

1953年5月30日、当時の郵政省が発表した「標準放送用周波数割当計画表」により、宮崎地区に1490kc、1kWが割り当てられたことから、宮崎県内でも民放局の開局が可能となった。ところが当時は、朝鮮戦争後の不景気(スターリン暴落)により、宮崎の財界では当初開局に向けた動きは全く見られなかった[8]。そこに目をつけたのは鹿児島県のラジオ南日本(現在のMBC南日本放送)であった。ラジオ南日本は宮崎への中継局設置を計画しており、宮崎市内の各方面にパンフレットや中継局設置に関する趣意書を配布するなどの活動を行っていた[9]

この動きに歯止めをかけた人物は、日向日日新聞(現在の宮崎日日新聞)社長の山口徳馬であった[9]。「鹿児島の電波が宮崎の空を飛ぶと、今に鹿児島資本に支配される。」などと、ラジオ南日本の誘いに乗りかけていた岩切章太郎宮崎交通社長、後に第2代MRT社長も兼務)や行政側(宮崎県など)をも巻き込み、1954年3月24日にラジオ宮崎(RMK:Radio Miyazaki K.K.)の設立にこぎつけた。ラジオ演奏所・送信所は当初、宮崎市日ノ出町128番地(1984年時点では宮崎県自動車学校、2021年現在は梅田学園DS 日ノ出校の地)に設置する予定であったが、航空大学校開校により航空機および無線施設の運用に支障がでるおそれが生じたことから断念し、二度の変更を経て宮崎市下北方町に決定された[10]。1954年7月1日に宮崎市下北方町(宮崎市立大宮小学校に隣接)からラジオ放送を開始。宮崎放送ではこの日を開局日としている。
ラジオ開局後

ラジオ宮崎が開局した1954年はデフレ下に加え風水害が頻発した一年であった。6月から8月にかけての長雨に加え、8月・9月には台風が4回も襲来し、宮崎県における農林業被害額は約150億円に上った(参考:1952年・1953年度の農林業所得が161億円である)。以上の要因により、第1期(1954年度)は690余万円の損失金を計上した[11]。なお、9月7日に襲来した台風13号でラジオ宮崎初の台風情報放送を行い、同月13日の台風12号では停電により停波したことから(当時自家発電装置は未整備)、宮崎県から払い下げを受けた広報車(通称マイクロカー、またはエノケン車と呼称)を用いて台風情報を伝えた[12]。第2期(1955年度)では東京支社・大阪支社の営業力強化などを実施し、神武景気の到来も相まってわずかながらの黒字に転換している[13]

ラジオ宮崎開局当初の周波数であった1490kcはRYCラジオ山梨(現在のYBS山梨放送)と韓国群山市の米軍ビーコン局も使用しており、宮崎市周辺以外では夜間の混信により聴取不可能の状態に陥っていた。このため1956年10月1日に周波数は1480kc(当時日本唯一)に変更され、1956年11月に延岡中継局、1958年5月には都城中継局が設置された[14]。1956年の周波数変更と延岡局開局によりサービスエリアが拡大し混信がなくなったことから、第5期(1957年4月-9月)には繰越損失金がなくなり純利益金も計上、初の株主配当が実施された[13]

ニュースについては全国ニュースは共同通信社、宮崎のローカルニュースは日向日日新聞ラジオ部からの提供であったが、全国ニュースについては1956年5月1日から毎日新聞社西部本社、一部は大阪本社)に切り替えられた。日向日日新聞ラジオ部の初代部長は、後に宮崎日日新聞社やエフエム宮崎の社長を務めた黒木清次であった。日向日日新聞提供によるローカルニュースはその後「宮崎日日新聞ニュース」となり、テレビ宮崎 (UMK) 開局直前の1970年3月末まで続いた[15]。日頃のニュース番組こそ新聞社に依存していたが、これとは別途に録音ニュース番組が自社制作された。当初は毎日夕方に放送枠を設けていたが、専任担当者が1人のみで無理があったことから1959年11月から日曜夕方の15分番組となり、複数回の番組名変更を経て1962年4月まで続いた[16]

1960年頃の特徴として、ラジオの宮崎局・延岡局・都城局の各局から別番組が1日30分程度、地元スポンサーを付けて放送されたことが挙げられる。これは当時の延岡局・都城局がコールサインを持つ独立した有人局であったことから実現したもの。1960年4月1日の18時35分からの15分枠においては宮崎局では『歌う若草美人』(若草商店街提供)、延岡局では『銀天街アワー』(延岡商店商社提供)、都城局では『都城アワー』(都城商店商社提供)が放送されていた。この編成は1960年2月から1963年6月まで実施された[17]。なお、都城局は1962年5月、延岡局は1967年4月に無人局運用に切り替えられた[18]
アナログテレビ放送開始アナログテレビ開局当時(1960年)の本社屋

1960年10月1日にはテレビ放送を開始。ニュースネットワークはTBS東京放送(当時の社名はKRTラジオ東京)と繋がりがあったことや、九州各県の先発局がJNNに加盟していたこと[注 5]マイクロ回線事情を考慮した結果、JNNに加盟することとなった[19]

アナログテレビ放送開始に先立ち1960年7月に報道部を設置。ローカルニュースは『JNNテレビ夕刊』(月曜 - 土曜 18:45 - 18:55)の後半を差し替える形で放送し、また、最終版(平日21時台、土日22時台)の全国ニュース番組名(JNNニュース)を『日向日日新聞ニュース』と改題しており、『テレビ夕刊』終了後に起こったニュースがあれば全国ニュースから差し替えて放送していた。日曜日には『RMKローカル週間ニュース』が編成されており(サービス放送期間中の1960年9月25日より開始)、1960年12月11日から『週間郷土の話題』と番組名を変更し、1970年9月まで放送された。当時のNHK宮崎放送局は下りマイクロ回線未開通の影響で鹿児島局の電波をそのまま放送していたため、ラジオ宮崎のみがローカルテレビニュースを放送していた[20]。なお、1964年8月までは上りマイクロ回線が未開通だったため、ニュース素材(フィルム)を福岡のRKB毎日放送まで輸送しなければならなかった[21]

テレビ放送の送信所は当初宮崎市北部の丘陵地、平和台に設ける予定であったが、中継局を大量に設置する必要があったため鰐塚山に変更された[22]。この変更で親局のみで宮崎県内の約8割をカバーするに至った[22] が、鹿児島県側にもスピルオーバーが発生し、鹿児島県の放送局にも影響を及ぼすことになった。特に大隅半島では容易に視聴できたため、南日本放送は自社の視聴者確保のために急遽鹿屋中継局(同局初の中継局)の設置計画を立てることとなり[23]、ラジオ開局時と逆の事態が発生した。1961年7月には社名と略称を現在の宮崎放送(MRT:Miyazaki Radio & Television)に変更。1966年12月10日にカラー放送を開始した。
1980年代以降

1984年9月の開局30年を機に、本社機能を宮崎市中心部の橘通りに移転し、"MRT micc"とMRTパーキングを開業。


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