宮崎吾朗
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来歴
生い立ち

1967年、宮崎駿の長男として東京都にて生まれた[1]。自宅を引越したため、1970年からは埼玉県所沢市にて育つ。子供の頃から父のアニメーション企画などを見学していて、押井守とはたびたび顔を合わせており、現在でも交流がある。多忙な駿は自宅に帰らないことも多く、一時は宮崎アニメを観ることが父親との唯一のコミュニケーションになっていた。幼少時から絵を描くことが好きで、駿や押井守の映像作品のほか、藤子不二雄の漫画などを好んでいた。

埼玉県立所沢高等学校信州大学農学部森林工学科(現・森林科学科)を卒業。高校では山岳部、大学では児童文化研究会に所属した。森林工学科を選んだのは自然環境やその保護・保全についての勉強をしたかったから。その学科のある大学の中で信州大学を選んだのは高校時に山岳部であり「山があるのは信州だしなあ」と思ったから[2]
ランドスケープアーキテクトとして

大学卒業後はランドスケープコンサルタントの株式会社森緑地設計事務所に入社し、建設コンサルタント環境デザイナーとして公園緑地や都市緑化などの計画・設計に従事した。当時の会社は若くめちゃめちゃだったため、これを何とかしようとしていたら2-3年で仕事をほぼ一人前にこなせるようになったという。都内の児童公園や総合公園の設計、岡谷湖畔公園の一部設計、工業団地の景観設計などを行った。

その後、スタジオジブリ鈴木敏夫から「宮さん(宮崎駿)がジブリの美術館をつくりたいと言ってる。ジブリにはそういうのがわかる人がいないんだけど、吾朗君、やらない?」[3]と誘われた。見せられた駿のプランに刺激を受け、「やります」[4]と回答し、森緑地設計事務所を退職した。

1998年、スタジオジブリに入社した[3]三鷹の森ジブリ美術館の総合デザインを手がけ、運営会社である株式会社ムゼオ・ダルテ・ジブリの代表取締役に就任する。三鷹の森ジブリ美術館竣工後は、2001年10月1日から2005年6月23日まで三鷹市立アニメーション美術館の初代館長を務めた。また、2001年10月には株式会社マンマユート団の初代社長にも就任する。2004年度の芸術選奨にて、芸術振興部門の文部科学大臣新人賞を受賞した[5]

愛・地球博で会場内に建設された「サツキとメイの家」の再現監修にも携わり、2022年開業のジブリパークの造園を指揮している[6]
アニメーション演出家として

2006年7月に公開されたスタジオジブリの長編アニメーション映画ゲド戦記』では、挿入歌『テルーの唄』の作詞とともに、脚本・監督を務めた。アニメーション、劇場用映画ともに初監督作品ながら、ヴェネチア国際映画祭に招待上映された[7]。本作では、アニメーターの仕事であるレイアウトでも参加している。その後は、三鷹市立アニメーション美術館で皿洗いをしたり[8][9]、美術館の企画のアイディアを提案していた[9]

2008年、神奈川近代文学館で開催された堀田善衞の展示会にジブリ担当のパートが設けられ、父が長年アニメ化を希望していて果たせなかった堀田の作品を架空のアニメ映画の企画として立ち上げ、その作り絵を展示した。イメージボードとキャラクター設定を吾朗が、美術ボードを美術スタッフが担当した。企画は『方丈記私記』『定家妙月記私抄』を原作とする「定家と長明」と「路上の人」の2本。このイメージボードは、「堀田善衞展 スタジオジブリが描く乱世。」として展示された。2010年には堀田の故郷高岡市でも開催され、2012年には「定家と長明」の企画が下鴨神社の「『方丈記』800年記念」の一環として展示された。

2011年7月、自身の監督2作目となる『コクリコ坂から』が公開され、第35回日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞を受賞した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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