宮城道雄
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宮城 道雄
宮城道雄
基本情報
出生名菅道雄
別名中菅道雄[1]、宮城検校
生誕 (1894-04-07) 1894年4月7日
出身地 日本 兵庫県神戸市
死没 (1956-06-25) 1956年6月25日(62歳没)
ジャンル箏曲
職業作曲家箏曲家
担当楽器
活動期間1908年 - 1956年
公式サイト ⇒http://www.miyagikai.gr.jp/

宮城 道雄(みやぎ みちお、1894年明治27年〉4月7日 - 1956年昭和31年〉6月25日)は、日本作曲家箏曲家である。兵庫県神戸市生まれ。旧姓は菅(すが)[1]十七絃の開発者としても知られる。大検校であったため、広く『宮城検校』と呼ばれた。

『雨の念仏』(1935年)などの随筆により文筆家としての評価も高い。作家の内田百とは親友同士であり、交友も深く、双方の随筆でたびたび言及していた。
略歴

1894年(明治27年)に菅国治郎とアサの長男として兵庫県神戸市三宮(現:同市中央区)の居留地内で生まれる[1][2]。父親は広島県沼隈郡鞆町(現:福山市)の出身で分部氏の次男[3]、母親も同県安佐郡祇園町(現:広島市安佐南区)出身である。生後200日頃から眼病を患い、また4歳の頃に母と離別して祖母ミネのもとで育てられた[2]。7歳の頃に失明。以降、生涯において咽頭炎など発病の際に折に触れて眼痛を訴えることがあったが、この失明が転機となり音楽の道を志す

8歳で生田流箏曲の二代菊仲検校に師事するも、その後兄弟子菊西繁樹の紹介により二代中島検校に師事した。2年後に師匠が病没したため、以降は三代中島検校に師事し11歳で免許皆伝となる[1]。師匠から「中島」の「中」の字をもらい受け、中菅道雄と名乗った[2]。13歳の夏、一家の収入を支えるため父の滞在する朝鮮仁川へ渡り、昼間は、夜間は尺八を教えて家計を助けた[1][2]。道雄は既習の曲の演奏だけでは満足せず、新規の作曲を目指し1909年(明治42年)には14歳で第一作の箏曲「水の変態」を書き上げ、伊藤博文に評価された[1][2]。伊藤は道雄を上京させて支援することを約束したが、同年に伊藤が暗殺されたため、叶うことはなかった[2]

1910年(明治43年)に朝鮮京城(現:ソウル)へ渡って頭角を現し、1913年(大正2年)、入り婿として喜多仲子と結婚したのち、妻の生家の宮城に改姓してからは芸名を廃止、本名の宮城姓を名乗った[1][2][3]1914年大正3年)に同地で尺八家の吉田晴風と知り合い、2人は生涯の親友となった[1][4]。道雄は朝鮮滞在中も神戸の旧師である中島や、熊本地歌名手として知られる長谷幸輝のもとを訪ねてさらなる研鑽に励み、1916年(大正5年)に最高位である “大検校” の称号を受けた[1][2][註 1]1917年(大正6年)4月、晴風の招きにより上京するが、ほどなくして妻が病死し、再び道雄は貧窮した[1][2]

1918年(大正7年)に吉村貞子と再婚し、貞子の姪である牧瀬喜代子(後の宮城喜代子)、数江(後の宮城数江)姉妹がのちに道雄のもとへ入門した[2]。道雄は葛原しげる高野辰之、山田源一郎、田辺尚雄らの洋楽作曲家や評論家、学者などに注目され、また彼らの支援や助言により、1919年(大正8年)、本郷春木町の中央会堂で念願の第1回作品発表会を開催し作曲家としての本格的なデビューを果たした[1][2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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