宮城道雄
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道雄の教育は箏曲に五線譜や絃名譜を能動的に取り入れるなどの斬新なものであった。また、初心者向けの箏や三味線用教則本を執筆した。加えて、門人を指導し後進の育成に努めた[1][2]。さらに、劇伴制作または筝曲指導というかたちで映画にもかかわっており、1935年には田中喜次の映画『かぐや姫』の音楽を手掛けた[8]ほか、1938年には百閒原作の東宝映画『頬白先生』で、百閒の娘役を演じることとなった高峰秀子に対して箏の手ほどきを行っている[5]戦災の悪化に伴い1944年(昭和19年)12月1日、神奈川県三浦郡葉山町の別荘へ疎開し、翌1945年(昭和20年)3月29日には栃木県の現塩谷郡高根沢町へと再疎開した[9]。同年5月25日の山の手空襲により道雄の牛込中町の住居は焼失した[3] 。9月6日、疎開地より引き上げる。箏を奏でる宮城道雄

1948年(昭和23年)5月に中町の住居を再建し、8月には父の故郷である鞆の浦で初の演奏会を開催した[3] 。同月、日本芸術院会員を拝命[1][3]1951年(昭和26年)3月には国内外の道雄の門人による「宮城会」が創設された[10]。同年4月には、箏制作者であり、また、楽器の収集家としても著名な水野佐平が開設した「丹水会館」においてこけら落としとなる演奏を行っている[11]1953年(昭和28年)夏、フランスビアリッツスペインパンプロナで開催された『国際民族音楽舞踊祭』に日本代表として参加、道雄は賛美され最優等賞を獲得した[1][2][3]。また、英国放送協会より「ロンドンの夜の雨」を放送初演した[2]

1956年(昭和31年)6月25日未明、大阪での公演へ向かうため、下りの夜行寝台急行列車銀河」に付き添いの内弟子牧瀬喜代子とともに乗車中、午前3時頃、愛知県刈谷市刈谷駅手前で客車ドアから車外に転落した。午前3時半頃現場を通りかかった貨物列車の乗務員から〝三河線ガードのあたりで線路際に人のようなものを見た〟という通報を受け現場に向かった刈谷駅の職員に救助され豊田病院(現・刈谷豊田総合病院)へと搬送されたが、午前7時15分に病院で死亡が確認された[1][2][12][13]。救助時点ではまだ意識があり、自らの名前を漢字の説明まで入れて辛うじて名乗ったと伝えられる[12]

道雄の死については、寝ぼけてトイレのドアと乗降口を間違えた[註 2]などの推測や、一方では自殺も噂されたが、どれも推測や憶測にとどまり事故の真相は不明である。周囲の人物評では、百閒が道雄の行動を常々観察して「カンの悪い盲人」と評しており、高峰秀子もまたこの訃報を新聞で知ったときに、ただちに「宮城先生は誤ってデッキから落ちられたのだ」と思ったという[5][註 3]。実際に道雄は晩年(場慣れているはずの)自宅内で転倒して片方の眼球を痛め、眼球摘出手術を受けるという事故を経験しており(その後は義眼を入れていた)、視覚障害者としては歩行感覚が鋭敏でなかったことをうかがわせる。谷中霊園内の宮城道雄の墓

墓所は東京都台東区谷中霊園にある[2]。命日の6月25日は遺作の歌曲にちなみ、「浜木綿忌」と呼ばれている。一周忌に際して水野佐平は邦楽再興に奉じた道雄の死を無意味にしてはいけないと考え、所蔵していた名作筝などを自宅の「和楽荘」及び邸内の「丹水会館」に展示した[14]。また同年には前述の事故現場近く[註 4]に、宮城会・日本盲人会・刈谷市により供養塔が建立されている[15]

宮城道雄の功績として、箏曲の伝統に根を下ろしながら洋楽を組み込んで新しい日本の音楽を創造した点が挙げられる。道雄は生涯に大構成の合奏曲から童曲にわたる幅広い作品を400曲以上制作した。また、自作曲や古典曲の演奏を行う一方、古典楽器の改良や新楽器の開発を行い、十七絃、八十絃、短琴(たんごと:家庭用の)、大胡弓(だいこきゅう:大型の胡弓)などを発明した[2]。他方では、1935年(昭和10年)に百閒の薦めで随筆集『雨の念仏』を執筆して以降、随筆にも才能を発揮し、これらの随筆は川端康成佐藤春夫らから高評価を得ている[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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