宮城事件
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高嶋辰彦少将(参謀長、陸士30期首席)

小沼治夫少将(参謀副長、陸士32期

不破博大佐(参謀、陸士39期

板垣徹中佐(参謀、陸士42期)

近衛第1師団

森赳中将(師団長、陸士28期)- 殺害

水谷一生大佐(参謀長、陸士33期

石原貞吉少佐(参謀、陸士47期)- 殉職

溝口昌弘少佐(参謀、陸士49期)- 皇太子(現・上皇)警備指導のため、疎開先の日光に出張

古賀秀正少佐(参謀、陸士52期)- 関与自決

芳賀豊次郎大佐(近衛歩兵第2連隊長、陸士28期

東京防衛軍警備第3旅団

佐々木武雄予備役大尉(横浜警備隊長)- 民間関与

その他

白石通教中佐(第2総軍参謀[警備主任]兼元帥陸軍大将畑俊六副官、陸士44期)ー 殺害

上原重太郎大尉(陸軍航空士官学校区隊長、陸士55期)ー 自決

窪田兼三少佐(陸軍通信学校教官、陸士50期

背景
ポツダム宣言の受諾決定

大東亜戦争太平洋戦争)に於いて日本の敗色が濃くなっていた1945年(昭和20年)8月上旬、6日の広島市への原子爆弾投下、9日未明のソビエト連邦参戦、同日の長崎市への原子爆弾投下を受けて、政府内部では1945年7月26日イギリスアメリカ合衆国中華民国連合国3国の首脳により発されたポツダム宣言の受諾による降伏を支持する意見が強まっていた。

9日に宮中において開かれた最高戦争指導会議では、鈴木貫太郎首相を始め、米内光政海軍大臣東郷茂徳外務大臣天皇の地位保証(国体護持)を条件として、阿南惟幾陸軍大臣梅津美治郎参謀総長はさらに幾つかの条件を付けた上での降伏を主張した。

午前10時から断続的に開催された会議が終了した後、鈴木首相は昭和天皇臨席の御前会議として再度、最高戦争指導会議を招集した。

10日午前0時から宮城内御文庫[注釈 1]地下の防空壕において開かれたこの御前会議の席上で、首相からの「聖断」要請を受けた昭和天皇は東郷外務大臣の意見に賛成し、これによりポツダム宣言の受諾が決定された。

連合国軍への連絡は、午前6時45分から中立国であるスイスおよびスウェーデンの日本公使を通して行われている。


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