大東亜戦争(太平洋戦争)に於いて日本の敗色が濃くなっていた1945年(昭和20年)8月上旬、6日の広島市への原子爆弾投下、9日未明のソビエト連邦参戦、同日の長崎市への原子爆弾投下を受けて、政府内部では1945年7月26日にイギリスとアメリカ合衆国、中華民国の連合国3国の首脳により発されたポツダム宣言の受諾による降伏を支持する意見が強まっていた。
9日に宮中において開かれた最高戦争指導会議では、鈴木貫太郎首相を始め、米内光政海軍大臣と東郷茂徳外務大臣が天皇の地位保証(国体護持)を条件として、阿南惟幾陸軍大臣と梅津美治郎参謀総長はさらに幾つかの条件を付けた上での降伏を主張した。
午前10時から断続的に開催された会議が終了した後、鈴木首相は昭和天皇臨席の御前会議として再度、最高戦争指導会議を招集した。
10日午前0時から宮城内御文庫[注釈 1]地下の防空壕において開かれたこの御前会議の席上で、首相からの「聖断」要請を受けた昭和天皇は東郷外務大臣の意見に賛成し、これによりポツダム宣言の受諾が決定された。
連合国軍への連絡は、午前6時45分から中立国であるスイスおよびスウェーデンの日本公使を通して行われている。