宮古島(みやこじま)は、沖縄県宮古島市に属する宮古列島の島の一つである。宮古島市役所などがある平良(ひらら)地区などが所在し、宮古島市および宮古列島の中心となっている。
沖縄本島から宮古海峡を経て南西に約290 km、東経125度、北緯24度に位置し、太平洋と東シナ海の間にある。面積は158.93 km2[3] である。近隣には、池間島、大神島、伊良部島、下地島、来間島がある。 「宮古(ミヤコ)」という地名の由来には諸説がある。 明代初期に編纂された『元史』仁宗記や1605年の『温州府志』には、1317年に「波羅公管下密牙古人」が温州永嘉に漂着したとの記載があり[4][5]、一般にはこれが文献における宮古島の初出とされる。「波羅公管下密牙古人」の解釈としては、「婆羅公」を琉球士族の親雲上と推定し「密牙古」を宮古の意味であるとする説[6]や、「波羅」は保良(宮古島内の地名)であり「密牙古」は宮古の意であるとの説[7]があるが、温州府志の数十年後に書かれた『明史』では「婆羅」はボルネオの意味であると説明されており[8]、解釈は定まっていない。また、『朝鮮王朝実録』(李朝実録)には、1477年(成宗8年)に与那国島に漂着した朝鮮人が宮古島を経て帰還した際の記録が残っており、宮古島は「悖羅彌古」や「覓高」と記されている[5]。 1509年に首里城正殿の欄干に設けられた琉球王国尚真王の事跡を讃える碑文「百浦添欄干之銘」には、1500年のオヤケアカハチの乱について「当西南、有国、曰太平山、弘治庚申春、遣戦艦一百艘、攻之」と記されており、当時、「太平山」は宮古と八重山の総称であった[7]。 1701年に成立した『中山世譜』には、「庇郎喇(平良)、姑李麻(来間)、烏喝彌(大神)、伊奇麻(池間)、面那(水納)、伊良保(恵良部)、達喇麻(多良間)、以上七島、総称之曰宮古島、又曰麻姑山」と記されており、「宮古島」や「麻姑山」は宮古島ではなく宮古列島を指して用いられ、宮古島は「庇郎喇」とされている[5]。慶世村恒任は『宮古史伝』において、「ピサラ(ヒララ)」とも「ミヤコ」とも呼ばれていたものが、一方は村落の名前に、他方は島の名前になったと考察しており、「ヒララ」は平地を意味し、「ミヤコ」は都の意で勢力の中心を示すとする[7]。 清の冊封副使として琉球王国に赴いた徐葆光が1721年に著した『中山伝信録』には「太平山、一名麻姑山 始為宮古、後為迷姑、今為麻姑」と記されている[5]。前半は宮古島が「太平山」や「麻姑山」とも呼ばれていたことを示しており、後半は「はじめはミヤコ(又はミヤク)といい、後にメークといい、今はマークという」と解されている[7]。 直角三角形のような形をした島で、南東端に東平安名岬が、北西端に西平安名岬がある。周囲には、北に池間島、北東側に大神島、西に伊良部島、下地島、南西に来間島が位置している。池間島、来間島、伊良部島とは、それぞれ池間大橋(1,425 m)、来間大橋(1,690 m)、伊良部大橋(3,540 m)で結ばれており、下地島とも伊良部島を介して繋がっている。
島名の由来
地理