宮内庁下総御料牧場
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1881年(明治14年) 明治天皇行幸(6月28日 - 7月2日)。リチャード・ケイ退職。農商務省が設置され農商務局に牧畜、獣医科を置き牧場はその所管となる。

1882年(明治15年) 明治天皇行幸(6月6日 - 9日)。獣医科を廃止。場内に駒場農学校獣医文科を設置。

1883年(明治16年) 波多野尹政場長に任命される。

1885年(明治18年) 牧場の所管が農商務省から宮内省になる。宮内省下総種畜場と改称。御料局が設置される。

1886年(明治19年) 宮岡正吉場長に任命される。同年勝野源八郎場長に任命される。野馬の飼養を廃止。宮内省官制定める。

1888年(明治21年) 牧場種馬寮の所管に移し、宮内省御料牧場と改称。新山荘輔場長に任命される。

1889年(明治22年) 事務所を両国区高堀から三里塚へ移す。

1891年(明治24年) 牧場会計を独立採算制とする。

1911年(明治44年) 千葉県営鉄道用地(多古線)として8町2反、県道敷地用として2町5反を無償貸付。

1913年大正2年) 千葉県営鉄道用地として8町2反を県へ無償貸付。

1914年(大正3年) 御料牧場官制公布され、御料牧場は宮内大臣の管理に属し、主馬頭の統理となる。
中山競馬・千葉県観光案内地図(昭和5年) 御料牧場がイラスト入りで紹介されている

1921年(大正10年) 本場の特別会計を改め通常会計に移す。

1922年(大正11年) 政府の行政整理により、用地2,044町歩を帝室林野局へ移管。後に、県・民間に払い下げる。御料牧場制を廃止。宮内省下総牧場と改称。馬の生産事業を中止。羽部義考場長に任命される。

1923年(大正12年) 増村嘉雄場長に任命される。

1926年(大正15年) 酒井克巳場長に任命される。

1927年昭和2年) 新冠牧場に移管の種畜場を本場に戻す。馬の生産業務再開。英国よりサラブレッド種牡馬「トウルヌソル」を輸入。

1934年(昭和9年) 養鶏事業開始。

1935年(昭和10年) 英国よりサラブレッド種牡馬「ダイオライト」を輸入。

1939年(昭和14年) 獣医学実地教育創始記念碑が有志により建立。

1942年(昭和17年) 宮内省御料牧場と改称。田中二郎場長に任命される。

1945年(昭和20年) 主馬寮廃止。主殿寮が設置される。牧場はその所管となる。

1946年(昭和21年) 肉加工工場落成。本格的な肉加工業務が始まる。883町歩を帝室林野局へ移管後、払い下げる。

1947年(昭和22年) 宮内府法施行され、宮内庁は宮内府となる。

1948年(昭和23年) 131町歩を農林省に移管後、払い下げる。孵卵舎新築。

1949年(昭和24年) 宮内府は宮内庁となり、主馬寮廃止。牧場は新設の宮内庁管理部の所管となる。軽種馬の生産業務再開。

1953年(昭和28年) 昭和天皇皇后、皇太子(現在の上皇明仁)行幸啓(5月7日)。第1回在京外交団招待。

1956年(昭和31年) 牧場が宮内庁の付属機関となる。

1961年(昭和36年) 輓馬生産事業開始。

1963年(昭和38年) 皇居内御料乳牛場を廃止。牧場にて業務を引く継ぐ。

1964年(昭和39年) 高野守雄場長に任命される。

1966年(昭和41年) 新牛乳処理場落成。

7月4日 三里塚地区に新東京国際空港設置の閣議決定。

9月?10月 新牧場の候補地調査の結果、栃木県塩谷郡高根沢町に設置の決定。


1967年(昭和42年)3月 新牧場を栃木県内に設置する旨の閣議決定。新牧場の用地買収並びに建設工事が始まる。

1969年(昭和44年)

8月18日 牧場閉場式を挙行。

8月 - 9月 新牧場(高根沢御料牧場)へ移転開始。


歴代場長

代氏名就任退任
1
岩山敬義1875年(明治8年)11月1883年(明治16年)5月
2波多野尹政1883年(明治16年)5月1886年(明治19年)2月
3宮岡正吉1886年(明治19年)2月1886年(明治19年)11月
4勝野源八郎1886年(明治19年)11月1888年(明治21年)9月
5新山荘輔1888年(明治21年)9月1922年(大正11年)11月
6羽部義考1922年(大正11年)11月1923年(大正12年)8月
7増村嘉雄1923年(大正12年)8月1926年(大正15年)6月
8酒井克巳1926年(大正15年)6月1927年(昭和17年)2月
9田中二郎1927年(昭和17年)2月1964年(昭和39年)10月
10高野守雄1964年(昭和39年)10月1966年(昭和44年)9月

桜と御料牧場

三里塚の春は桜樹10万株とも言われ、花で満ちあふれ多くの人を集め近くの
成田山新勝寺、宗吾霊堂とともに名勝地として人々に親しまれた。

三里塚の桜は牧場開創の際防風林としてスギマツケヤキと共に「ヨシノザクラ」、「ヤマザクラ」、「ボタンザクラ」などが植えられた事に始まる。広い牧場を散策しながら花の観賞が出来る事も特徴で、「一里、二里、花は桜の三里塚」ともてはやされていた。また1969年(昭和44年)の4月1日から15日まで行われた最後の桜まつりには、名残を惜しむ延べ20万人の花見客で賑わった。

皇室と御料牧場貴賓館(旧アプジョーンズ官舎)

1881年(明治14年)と1882年(明治15年)には明治天皇の下総種畜場行幸があり、2度とも馬車を使用せず出発(赤坂仮皇居)から還幸までの4泊5日の行程で37.5里(約140km)の道程を乗馬で過ごされ綿羊の放牧、野馬の捕獲状況等を見学した。1885年(明治18年)の宮内省移管後は日本唯一の宮廷牧場として、皇室の御料牧場に対する関心も強まった。太平洋戦争後の御料牧場は御料馬や供奉馬の生産、御料用の畜産加工品をはじめ生肉、鶏卵、菜類の生産供出が主要となった。

皇族の来訪が相次ぎ、戦後の1951年(昭和26年)10月20日には順宮清宮内親王が一泊して場内を見学、芋掘りやキノコ狩りを行った[6]ほか、1953年(昭和28年)、昭和天皇・香淳皇后、皇太子(現在の上皇明仁)が行幸啓し飼養動物や農作業の状況見学した。
御料牧場ゆかりの人物

D・W・アプジョーンズ
[注釈 1](D.W.Ap.Jones 1830年-1900年[4]
アメリカ出身の牧羊家。明治政府に殖産興業政策の為に雇用された。1873年(明治6年)に岩倉遣米使節一行がアメリカを訪問した際、来日の交渉を持ち使節の帰国とともに来日したと考えられている。1875年(明治8年)、三里塚に創設された下総牧羊場の綿羊飼育の最高責任者として、また積極的な経営と知識をもって日本の近代綿羊業の基礎をつくり上げた。名前を「如温士(ジョオンズ)」、「如温寿(ジョオンズ)」などと漢字に当てはめる程の親日家だったとされるが、強盗に襲われて右腕に障害が残った。帰国後メキシコにおいて日本人移殖のため、在メキシコ大使館の顧問を務めた[7]

新山荘輔
5代目の場長。32年間場長を務めた。種畜の改良・繁殖・育成等を含む飼養管理,治療法等に尽力したことから『日本獣医学の生みの親』といわれる。1924年、功績をたたえて銅像が建立された。第二次世界大戦中に供出されたが、2002年に三里塚記念公園に再建されている。[8]牧畜啓蒙にも尽くし、日本人の好む桜を場内に植えることを発意、5万本の桜を植樹し人々が訪れる場所とした。[9].mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに春駒の原文があります。

高村光太郎
1924年(大正13年)4月13日、下総御料牧場を歌った詩「春駒」を朝日新聞に発表。この詩は、現在三里塚記念公園の敷地内に碑文として残されている。

野平省三
種牡馬管理担当から26歳で騎手に転じた。チャペルブラムプトンの担当者であった。騎手顕彰者野平祐二の父。
その他

ジンギスカンは御料牧場の職員が始めた料理だと伝えられており、この地域の伝統的な食文化となった[10][11]


皇族宿舎として使用されていた貴賓館の裏手に、コンクリート造の防空壕が存在し、「御文庫」と呼ばれる皇族用のものであったといわれる。


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