宮中祭祀
の主要祭儀一覧宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)は、天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう祭祀。皇室祭祀とも呼ばれる[1][2]。皇居の宮中三殿で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、掌典長(掌典職)が祭典を行い、天皇が親拝する小祭、毎月1日・11日・21日に掌典長が祭典を行い、原則として1日には天皇が親拝する旬祭がある[3]。大嘗祭・大嘗宮の儀に臨む天皇明仁 部族社会 神話学者の松前健は「記紀」等に見える初期の大王の記録や古社の記録等から、初期ヤマト王権では三輪山を斎場とした日神祭祀があった可能性を指摘している[5]。やがてヤマト王権の勢力が日本の東西に広まるにつれ、古くから日神崇拝の聖地として中央にも知られていた伊勢の地を大王の聖地とし、皇祖アマテラス大神として信仰するようになっていった[6][注 1]。「遅くとも6世紀前半」「どんなに遅く見積もっても6世紀末以前」には皇祖神の天照大神として伊勢神宮に祭られていたという[8]。 また、大王自身も「カミ」を祭るのが本来の主要な任務であったとされ、しばしば「ウツシイワイ」を行った神武天皇や、自ら神床に通夜し夢告を受けた崇神天皇の記事にその様子が伝えられている[9]。奈良県桜井市の纏向遺跡からは、3世紀中頃のものとみられる祭祀土坑から祭祀で使用された食物や伊勢製の土器が出土し、それらには大嘗祭神饌との共通点も多く、大王や天皇の祭祀の原型が見られるという[10]。皇室の祖先神を祀る伊勢神宮内宮 『日本書紀』敏達天皇紀には宮廷内に日祀部の設置が記されているが、これは神祇官以前の古い祭官であり、太陽神の祭祀を司っていた[11]。 天武天皇と持統天皇の時代に多くの国家祭祀が整備・成立したことが、多くの先行研究で明らかになっている[12]。新嘗祭や大嘗祭の祭祀としての形式確立はこの時代と思われる[注 2]。 奈良時代になると、当時の先進国であった唐の国家体制を範として律令の制定が行われた。この時、祭祀についても従来行われていた「カミマツリ」が神祇官を中心に再編成された。これが律令祭祀であり、その規定が神祇令である[13]。神祇令では、10の四時祭と2つの臨時祭、二季に行われる大祓が規定された。祈年祭は唐の「祈穀郊(きこくこう)」に倣ったものと思われ、鎮火祭や道饗(みちあえ)祭は都城成立後と思われるが、それ以外は伝統的祭祀に由来するという[14]。神祇官より全国の主要諸社に定期的に幣帛を頒布することで、中央政府は地方神社の祭祀にも関与した[13]。特に伊勢神宮の神嘗祭に対しては、宮中で天皇が自ら伊勢神宮を遥拝する「勅使発遣の儀」が行われ、幣帛が毎年必ず送られるとされた(神嘗祭賢所の儀)[15][16]。 平安時代には、年始の「元旦四方拝」や宮中における天皇の毎朝の神事である「毎朝御拝」、宮中女官による内侍所祭祀が成立した[17]。また、天皇親祭の新嘗祭、神今食や神祇官による祈年祭、御体御卜(おおみまのみうら)などは継承された[18]。 平安期には官社から名神が選ばれ、名神奉幣が行われるようになった。9世紀末には、さらに数が絞られて十六社奉幣の制が成立した。その分類は、天皇守護神(伊勢、石清水、賀茂、平野)、王城守護神(賀茂、松尾、平野、稲荷)、対外関係守護神(住吉)、藤原氏氏神(春日、大原野)、大和の名社(大神、石上、大和、広瀬、龍田)、祈雨神(丹生、貴布禰)である。その後、991年(正暦2年)に吉田、北野、広田が、994年(正歴5年)に梅宮が、996年(長徳2年)に祇園が、1039年(長暦3年)に日吉社が加わり、最終的には二十二社奉幣 天皇が勅使を遣わして伊勢神宮以下の諸神社に幣帛を捧げることは醍醐天皇の代に始まったといわれ、伊勢神宮以下の特定の神社への奉幣使発遣の神事は天皇の親祭とされた[20]。奉幣使は例幣をはじめとして伊勢神宮がもっとも頻繁であり、平安時代から院政期・鎌倉期には公卿が伊勢奉幣使(伊勢例幣使)に任命される習慣となり公卿勅使と呼ばれた[20]。 この時代、病気や疫病、地震、火災、天災といった災い事は神の祟りなどが起こすものと考えられ、人々は、祟りを起こす神の存在を鬼に例えたり、疫神として恐れていた[21][22][23]。疫神祭
1990年(平成2年)11月
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