宣教師
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19世紀後半になると再び宣教熱が高まり、従来の修道会に加えてサレジオ会などの新修道会も盛んに宣教師を派遣するようになった。
正教会の宣教師

正教会においても特にロシア正教会では熱心な東方宣教活動が見られた。正教会の宣教師たちは、シベリア・アラスカ等に宣教し、現地語を学び聖書を翻訳し現地語典礼を行いながら改宗者を獲得していった。日本に対してはニコライ・カサートキンが正教を伝道し、日本正教会の礎を築いた。
プロテスタント・キリスト教系新宗教の宣教師

キリスト教の歴史の中では、プロテスタントの諸教派も盛んに宣教師を送り出して教勢の拡大につとめている。特に宗教改革の時代、多くのプロテスタントの宣教師がヨーロッパ各地で活躍し、新たな信徒を獲得することになった。他にもキリスト教系の新興教団であるエホバの証人の信徒たちが盛んに宣教活動を行うことはよく知られている。末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)も信徒を派遣して宣教活動を行っている。
日本とキリスト教宣教師「日本のキリスト教史」も参照

現在までに、文献などではっきりと分かっている史料から、日本に到達した最初のキリスト教宣教師はザビエルであるとされる。

彼はイエズス会の創立メンバーの一人であり、すでにインドでの宣教活動で大きな成功を収めていた。しかし、彼はインドでは宣教活動において植民活動をすすめていたポルトガル政府の干渉を受けることに不満を持っていた。そのころ、倫理意識が強く教育水準の高い国民が多いという日本の噂を聞き、実際にヤジロウという日本人と出会った。そして、ポルトガル政府に干渉されない日本で自由に宣教してみたいと思うようになった。こうしてザビエルはインドを離れ、1549年に念願の日本に到着した。

ザビエル自身は、2年ほどで日本を離れ、さらに中国への布教を目指すこととなったが、ザビエルに続き、多くのイエズス会員が日本を訪れた。彼らの戦略は適応主義とよばれ、ヨーロッパ本国における価値観や方針を守ることよりも、現地の文化を尊重して、教勢を拡大することを優先した。なお、彼らがリキュール鉄砲を日本に最初に持ち込んだとする説もある。ザビエル達の来日がきっかけとなり、南蛮貿易が活発となり、多くのヨーロッパ由来の製品や文化が、ヨーロッパの植民地化が進んでいた東南アジアから日本に渡ってきた。戦国時代の只中にあった当時の大名たちは、鉄砲や大砲に代表される、最新の科学技術を貪欲に欲していた。

これらの宣教師の活動により、短期間に多くの日本人がキリスト教徒(キリシタン)になったが、宣教がスペインやポルトガルの植民地主義と密接な関係を持っていると見なされたこと、非カトリック国のイングランドオランダが反スペインの立場から盛んにカトリック教会の危険性を喧伝したこと、カトリック教会の修道会の中でもイエズス会とフランシスコ会ドミニコ会との間で内紛があったこと、国外の巨大組織にコントロールされた信者が国家の安定を脅かす不安定要素であると見なされたことなど、さまざまな要因が複合してキリスト教は禁止されるにいたり、カトリック教会の宣教師たちもあるものは追放され、あるいは棄教をせまられ、あるものは処刑された。

1587年バテレン追放令によってキリスト教への締め付けを初めて行ったのは豊臣秀吉であったが、その時代には一度宣教師の処刑(日本二十六聖人の殉教)が行われたものの、大規模な迫害は行われなかった。その後、徳川家康はキリスト教禁止を国策化し、慶長17年(1612年)に江戸幕府による正式な禁教令が出された。

幕末になると、再びカトリックをはじめ、プロテスタントや正教会の宣教師たちが日本を訪れるようになった。初めは日本で暮らす外国人のためという名目であったが、明治政府がとっていたキリシタン迫害の政策を西洋列国が非難し、新たな諸条約の締結に難色を示したことから、明治6年(1873年)になって政府がキリシタン禁令の高札を撤去[3]したことによって、宣教師たちは公に活動できるようになり、教育・医療事業を行いながらキリスト教の布教につとめ日本の近代化に対して大きな貢献を行った。この時代、今も続く多くのキリスト教主義学校(ミッション・スクール)が創設されている。

外国人の宣教師たちは国家神道政策がすすんだ第二次大戦中の一時期、敵国人という理由で再び迫害を受けることもあったが、第二次大戦後には再び多くの外国人宣教師が日本にやってきて社会福祉や教育事業に取り組むようになり、現代に至っている。

県立安土城考古博物館(近江八幡市安土町下豊浦)で、18世紀のフランスで出版された本に収められた安土城の立体絵図が公開されている。仏人宣教師で探検家でもあるピエール・フランソワ・ザビエル・ド・シャルルヴォワ(1682?1761年)著の歴史書「日本史」の中に、日本の風景を紹介する挿絵として折り込まれていたものである。[4]
16世紀のポルトガル宣教師

日本が西洋と交流する端緒となった16世紀の往来を年代を追って少し詳しく見てみる。1549年8月15日にザビエルが鹿児島に上陸。日本での活動は上述のようによく知られるところである。1551年11月15日ゴアへ向けて日本を離れた。

宣教師ではないフェルナン・メンデス・ピントはこれより早く日本へ渡ったと自著の『遍歴記』に記している。ただし、アジア各国での彼の活躍を述べた同記の信憑性については疑う向きもある。日本へは仲間2人と中国人の海賊船で漂着し、数年後の再来日(1544年?)で種子島に鉄砲を持ち込んだという。この後、中国へ戻り、日本交易を欲するポルトガル商人と日本へ向かうが難破し琉球に漂着。そして、日本を離れる時にはヤジロウともう一人を連れ帰り、マラッカでザビエルに会わせたという。

次にルイス・フロイスは1532年に生まれ、1548年にイエズス会に入り、インドのゴアで勉学、ザビエルやヤジロウと会った。1561年にゴアで司祭叙階を受け、1563年に長崎に上陸。1565年に京都入り。1569年に二条御所建築中の織田信長に会い布教を許された。

1583年、宣教活動から退き活動記録を残すようイエズス会から命ぜられ、これが後に『日本史』と呼ばれた。1587年のバテレン追放令で長崎へ去る。1590年宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに同行し、豊臣秀吉に謁見。

1592年、ヴァリニャーノと共にマカオへ渡ったが、1595年に長崎へ戻り、1597年死去。

そのヴァリニャーノであるが、1579年に日本に着く。1581年、織田信長に謁見し、狩野永徳作とされる安土城屏風を贈られ、教皇グレゴリウス13世に献上したが行方不明に。信長からは同行の黒人奴隷を所望され献上、信長の家来となった弥助は忠誠を尽くし本能寺の変(1582年6月21日)で明智光秀に捕らえられたというが消息不明に。ヴァリニャーノは天正遣欧少年使節を企画し、1582年2月20日に少年使節4人と長崎を出発、ゴアまで付き添った。帰国の少年使節と1587年5月29日にゴアで再会し、1590年7月21日に長崎へ戻った。フロイスと共にマカオへ渡った後の1598年にまた来日し、1603年まで滞在した。

1572年に来日したガスパール・コエリョは、ヴァリニャーノによって初代準管口区長に任命された。

最後にジョアン・ロドリゲスである。1561年に生まれ、経緯不明ながら1574年に若くして母国を発ち、インド、マカオを経て1577年に日本到着しイエズス会に入った。1581年府内(大分)の神学校で学び、1587年のバテレン追放令後も有馬の神学校で勉学を続け、翌年には日本人学生にラテン語を教えたという。1591年フロイスの後任通訳としてヴァリニャーノと長崎へ。1595年10月に日本を発ち、翌年マカオで司祭叙階を受け、8月に日本へ戻った。豊臣秀吉に気に入られ、1598年9月18日の秀吉死去の2週間前に2度見舞いをしている。イエズス会の会計責任者となり、1601年徳川家康からポルトガル商人との交渉役を仰せつかって活動したが、政治への関与と行き過ぎた商売はイエズス会内部からも反発があり、ポルトガルの台頭に不安を抱いた家康から1610年に日本追放となった。

16世紀末、ブラジル東北部でポルトガルからの宣教師による福音宣教が開始されたが、数十年後にオランダから訪れたカルヴィン派による迫害によって、1645年、多くのカトリック教徒が殉教した。その中で名前が確認されたのは、上記2神父と28人の信徒である。16世紀のメキシコの初期殉教者。3人はフランシスコ会の最初の宣教者たちによって堅固なカトリックの教育を受けた。クリストバルはその信仰のために、父から暴力を受け、1527年、13歳で殉教。アントニオとホアンは宣教師たちのためにインディオスの通訳として奉仕、死を覚悟の上で、宣教師らが偶像を破壊するのを助け、1529年、インディオスたちに殺害された。[5]
訳語について

日本では宣教師の語は一般に理解されている意味では(missionという語の意味はさておいて)、「主としてキリスト教の盛んな地域の一部の母教会から、国外の、まだキリスト教が盛んでない地方 (宣教地) へ派遣されてキリスト教を伝える人」という意味で使われる事が多い[1]

キリスト教会の中でのさまざまな概念は新約聖書に登場する出来事やものごとや概念に起源を持つものが多いが、この宣教師もそうであり、この概念の起源をたどると、新約聖書に何度も登場する「遣わされた者」(派遣された者)という意味の表現・概念である。新約聖書には、イエス・キリストが自分の弟子のひとりの○○○を何処何処へ派遣した、といった類の記述が何度も登場する。新約聖書のもともとの表記言語はギリシア語であり、「遣わされた者」というのは、新約聖書のギリシア語ではアポストロス(απ?στολο?)と表記されている。


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