実録シリーズ
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『仁義なき戦い』の大ヒットにより、岡田社長が「実録路線」第二弾として、安藤昇主演映画に『やくざと抗争 実録安藤組』というタイトルを付け[23][24]、これもヒット[23][24][39]。ヤクザ映画のタイトルに「実録」という呼称が入ったのはこれが最初。映画のタイトルに「実録」という言葉が入った映画は、戦前には多かったが[40]、戦後はあまり使われていなかった[40]。岡田は強力な抵抗を押し切って[41]、これらを「実録路線」としてシリーズ化し、「任侠映画」からの転換を図り[17][24][25][41][42][43][44][45][46]、以降も実録ヤクザ映画が量産され[46][47]、「実録」という言葉も一気に普及する[13][35][48][49][50][51]。『宝石』1983年1月号の「実録/戦後日本映画史 人と事件とー最終回 任侠・実録で血路を開いた東映・岡田」という記事で、「映画史に一時期を画した東映の任侠映画もすでに下降線を迎え、それを象徴するかのように任侠映画の女王・藤純子が1972年3月公開の『関東緋桜一家』を最後に引退、スクリーンから消えていった。それは任侠路線の終焉ともいうべき出来事であった。また社内的には最盛期に肥大化した製作現場と製作要員の縮小という大きな問題もあって、好調を続けてきた東映が初めて直面する苦難のときでもあった。このとき任侠路線につぐ"実録路線"を考え出したのは新社長の岡田茂である。岡田は『日本映画界の最大の危機は1971年から1974年の三年間で、全部ダメになると思ったよ。それから10年間は各社とも体質改善に励んでどん底から這い上がり、それぞれに生きる道を身に着けた。ウチも落ち目になった任侠路線の次の手をと苦しんでいたとき、新人のライター(飯干晃一?)が書いた毛色の変わったシナリオが目についたんです。ある組織暴力の実態をモデルにしたもので、ナマの迫力があった。そのころアメリカ映画の『ゴッドファーザー』が大当たりで、イタリア映画の『シシリーの黒い霧』や『コーザ・ノストラ』といったマフィアの暴露物が話題になっていた。実在の暴力団をモデルにしているので、ちょっと危険はあるがとにかくやってみようというので、監督に深作欣二を起用して、まず第一作として作らせたのが『仁義なき戦い』で、これがヒットしたので実録路線でゆこうということにしたわけだ』とそのいきさつを語っている」と書かれている[14]。『コーザ・ノストラ』を日本で配給したのは岡田が作った[52]東映洋画だった[53]。『月刊創』1977年5月号のインタビューでは、任侠映画をスパッと切って、実録映画に転換した理由を「任侠映画がマンネリになったから止めたんではなく、観客が別の方向の映画に行くのを見極めただけです」と述べている[54]。京都時代の盟友で、同じ撮影所長としてしのぎを削った鈴木晰成大映京都撮影所長は、「沈没しかけた東映丸をそのつど立て直して航行可能にした、それが岡田という男の凄さだよ」と話していたという[55]

1973年1月13日に公開された『仁義なき戦い』は大ヒットにより、当時の東映では珍しいロングランが実施され、1973年2月2日までの三週間興行だった[56]。岡田が「実録路線」という言葉を使ったのは『仁義なき戦い』公開中と見られる1973年1月後半か2月頭のことで[57]、『週刊現代』1973年2月12日号の記事で「実録路線は、やくざものとはかぎらない」と話しており[57]、『仁義なき戦い』は公開前より続編の制作が決定していたともいわれ[58]、つまり1973年に実録映画のヒットが続いたから「実録路線」を敷いたのではなく、『仁義なき戦い』がヒットしたら「実録映画」を路線化しようと決めていたものと見られる。興味深いのは岡田茂の『事件が起きたら即、映画』術と評されるように[59]、当時の複数の記事で岡田が、黒い霧事件を扱う『実録・プロ野球・黒い霧事件』[57][60][61]、『実録・連合赤軍』[57][62]田中角栄の自伝を実録で描く『任侠総理』[61][63]、『実録大映興亡史』[57][64]、有名な『実録・共産党[65]などを企画している、と話していることである[57][61][64]。『任侠総理』は『仁義なき戦い』の製作と同時期に田中角栄を実録で描く企画として挙げたもので[61][63]、岡田の前任社長・大川博が田中と同じ新潟県出身で親交があり[63]、岡田も田中と付き合いがあったことから[66]田中が首相在任時の1972年夏に自民党広報部に正式に映画製作を申し入れたが[63]、諸事情があり製作されなかった[63]。『実録大映興亡史』は大映永田雅一の功績を讃えつつ、真の目的は、いずれビデオの時代が来るとソフトが不足すると読み[57]、テレビでまだ未放映の『羅生門』を始め、多くの名作を持つ会社再建中だった大映の旧作の版権を安く買い叩けないか企んでいたといわれる[57]。これは岡田が「実録ヤクザ映画」だけでなく「実録犯罪映画」などを含めて、範囲の広い「実録映画」の量産を最初は考えていたものと推察されるが、「実録ヤクザ映画」より「実録犯罪映画」などの方が製作に当たって問題が大きかったため、上記の企画を後回しにし、大きな支持を得た「実録ヤクザ映画」の製作を押し通したものと見られる。


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