実存主義
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アリストテレス及びスコラ哲学では、実存を本質に対する概念としてとらえている[11]。アリストテレスにとってはプラトンの普遍者実体が、自分には実存につながらない存在と見えていた。なお、ソクラテスプラトンアリストテレスらの古代の哲学者を実存主義者とは呼ばない。近代哲学では、ヘーゲルが、理念現実との不可分性(理念的・必然的、あるいは合目的的ではない、一回的な、あるいは偶発的な個物は永続性や普遍性を欠く、という意味で現実性を欠く、という意合い)を説いて「理性的なものは現実的となり、現実的なものが理性的となる。[12]」(法の哲学序文)であるとした。これに対抗して、神の前に教会を経ずに立つ単独者としての、自己自身の「実存」(existenz )を価値としたキルケゴールは、実存哲学の嚆矢ともいわれる。その場合に、信仰者を前提とした制約された姿勢がキルケゴールの実存にはあるということを、正しい実存理解のためには見据える必要がある。キェルケゴールは、理想主義的な分析をするスウェーデンボルグらの文芸批評家を否定した[13][14][15]

哲学者フレデリック・コープルストンによる解説では、サルトルは「実存主義者に共通しているのは、存在は本質に先立っているという基本的な教義である」と考えている[16]。ロシア文学者・梅田寛によれば、ヘーゲルの唱えた「絶対説、人類進歩についての三体説及び『実在するものは全て合理である』という結果に対する効果は盛んに論議され」て当時の皇帝制度も含めその合理性が主張されていたが、次第に青年ヘーゲル派などヘーゲル崇拝者の中からも批判が生じる結果となった[17]プロイセンドイツ)では、ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハカール・マルクスフォイエルバッハに関するテーゼ)、フリードリヒ・エンゲルスフォイエルバッハ論)、ロシアではヴィッサリオン・ベリンスキー[18]アレクサンドル・ゲルツェン[19]ニコライ・チェルヌイシェフスキー[20]デンマークではキルケゴールなどがヘーゲルに批判的な立場から活動を行った。「新ヘーゲル主義」および「新カント派」も参照

第一次世界大戦終結後間もなく、詩人ポール・ヴァレリーテュービンゲン大学における講演で言った。「諸君、嵐は終わった。にもかかわらず、われわれは、あたかも嵐が起ころうとしている矢先のように、不安である。」

ダーウィンの『種の起源』以降、ヨーロッパは古代以来の「聖書的世界」から、「科学と進歩の時代」へと向かった。実存主義は実証主義や合理主義などの、それまでの哲学の主流に対する反動として19世紀に萌芽が見られ、第一次世界大戦第二次世界大戦国家総力戦による大量破壊を経て、さらに発展した[21]

「主体性が真理である」として、キルケゴールはから与えられた可能性を実現することに生の意義を見出した主体志向を唱えた。さらに、第一次世界大戦において、個人を置き去りにした近代思想の惨禍を目の当たりにして、個人を哲学的考察の対象にしようという傾向も見れれた。神の死(「神は死んだ」)を宣言し、能動的なニヒリズム (運命愛) の思想を展開したニーチェを、神を否定する実存主義の系譜の先駆者としつつ、1930年代ドイツマルティン・ハイデッガーカール・ヤスパースらによって「実存」の導入が図られた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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