幕府は、稲垣対馬守の『御渡御書付』として宝永5年9月、および12月に再度滞りなく通用するよう命じたが、全く効果は無かった。
覚
一 大銭之儀先達而相触候通相心得、金銀小銭同前ニ弥無滞可致通用事
一 御領私領共、年貢収納等ニも大銭差交候様ニ、御料者御代官、私領は其所之地頭可申渡事
右之通弥可相守者也 5代将軍徳川綱吉が没して程なく徳川家宣により生類憐れみの令の廃止と共に悪評であった大銭も鋳銭停止とされ、通用も停止された。宝永6年1月17日(1709年2月26日)の大銭停止の触は、江戸より到来した旨が、正月23日(1709年3月4日)付で京都町奉行から小堀仁右衛門他5人の代官に通告された。 大銭相止御触 一 先達て被仰付候、大銭の儀通用致難渋下々迷惑仕候に付、向井後通用相止め様に、今度被仰付候、且又御蔵より出候大銭は、追々御引替可成候旨、町中商売人へ、念入可申渡候事 寳永六丑年正月廿三日 京都七条銭座は上納した47,750貫文を返還請求できず大損害を被ることとなった[7]。また、市中の大銭は引き換えが延期された上に『近世見聞集』では享保8年(1723年)に大銭一枚は銭七文に引き換えられたとある。信用貨幣論者である勘定奉行の荻原重秀でさえ、「此大銭の事はよからぬこと」と申したとのことである[5]。 明治維新には、丁銀・豆板銀は銀目廃止令で以前に通用停止とされたものも含めて両単位の貨幣によりレートが定められて交換され、他のほとんどの貨幣は以前に通用停止とされたものも含めて新貨による交換レート・通用価値が定められたのに対し、宝永通宝については新貨による交換レート・通用価値は定められなかった。
通用停止
参考文献^ 瀧澤武雄,西脇康 『日本史小百科「貨幣」』 東京堂出版、1999年
^ a b 青山礼志 『新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド』 ボナンザ、1982年
^ 小葉田淳 『日本の貨幣』 至文堂、1958年
^ 三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年
^ a b c 滝沢武雄 『日本の貨幣の歴史』 吉川弘文館、1996年
^ 草間直方 『三貨図彙』 1815年
^ a b 小葉田淳 『貨幣と鉱山』 思文閣出版、1999年
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