宝永通宝
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これは「一両=3.9?4貫文より高下なく大銭を差混ぜて通用すべき」との触書であった[5][6]。通用は宝永5年4月からとされた。

   御触書

一 今度京都銭座にて大銭出来候、世間通用の為に候間、諸国何方によらず、売買請取方無滞只今迄の新銭に交へ、通用可申候、但大銭一銭は、只今の十銭に当り候事

一 只今迄の新銭、相庭金壱両に銭三貫九百文より四貫文迄の積りに定め、夫より高下無之様相守り、大銭を差交へ通用可仕事

   附大銭当四月より通用可仕候事

一 大銭外にて、似せ拵候者於有之は、可為曲事事

   寳永五子年二月十日

銭座では寛永通寳の鋳造高の約一割を運上として幕府に納めるのが慣行であったが、『京都御役所向大概覚書』によれば、この大銭鋳造においては一カ年十万貫文を鋳造し、うち五万貫文を運上すると定められたが、この内47,750貫文が上納され、残り250貫文は到着前に通用停止となったため上納されなかったという[7]
流通の停滞

この寳永通寳は量目2匁5分程度すなわち寛永通寳2枚半程度の銅銭であり、また金銭の計算に不便であったことなどから市場での評判はすこぶる悪く、両替商も苦情を申し立てる始末であった。これは当時銭緡(ぜにさし)を省陌法と称して寛永通寳一文銭96枚の束をもって100文とする慣行から、この銭緡が銀一匁である場合、十文銭10枚のときは銀一匁〇四一六六六・・・と換算しなければならず、銀建ての価格のものを銭で払う場合計算が煩雑であったことによる[5]

幕府は、稲垣対馬守の『御渡御書付』として宝永5年9月、および12月に再度滞りなく通用するよう命じたが、全く効果は無かった。

   覚

一 大銭之儀先達而相触候通相心得、金銀小銭同前ニ弥無滞可致通用事

一 御領私領共、年貢収納等ニも大銭差交候様ニ、御料者御代官、私領は其所之地頭可申渡事

   右之通弥可相守者也
通用停止

5代将軍徳川綱吉が没して程なく徳川家宣により生類憐れみの令の廃止と共に悪評であった大銭も鋳銭停止とされ、通用も停止された。宝永6年1月17日(1709年2月26日)の大銭停止の触は、江戸より到来した旨が、正月23日(1709年3月4日)付で京都町奉行から小堀仁右衛門他5人の代官に通告された。

   大銭相止御触

一 先達て被仰付候、大銭の儀通用致難渋下々迷惑仕候に付、向井後通用相止め様に、今度被仰付候、且又御蔵より出候大銭は、追々御引替可成候旨、町中商売人へ、念入可申渡候事

   寳永六丑年正月廿三日

京都七条銭座は上納した47,750貫文を返還請求できず大損害を被ることとなった[7]。また、市中の大銭は引き換えが延期された上に『近世見聞集』では享保8年(1723年)に大銭一枚は銭七文に引き換えられたとある。信用貨幣論者である勘定奉行荻原重秀でさえ、「此大銭の事はよからぬこと」と申したとのことである[5]

明治維新には、丁銀・豆板銀銀目廃止令で以前に通用停止とされたものも含めて両単位の貨幣によりレートが定められて交換され、他のほとんどの貨幣は以前に通用停止とされたものも含めて新貨による交換レート・通用価値が定められたのに対し、宝永通宝については新貨による交換レート・通用価値は定められなかった。
参考文献^ 瀧澤武雄,西脇康 『日本史小百科「貨幣」』 東京堂出版、1999年
^ a b 青山礼志 『新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド』 ボナンザ、1982年
^ 小葉田淳 『日本の貨幣』 至文堂、1958年
^ 三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年
^ a b c 滝沢武雄 『日本の貨幣の歴史』 吉川弘文館、1996年
^ 草間直方 『三貨図彙』 1815年
^ a b 小葉田淳 『貨幣と鉱山』 思文閣出版、1999年

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