宝永地震
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このような震源域が広大な超巨大地震[30]は日本において明治以降の近代観測の中では知られていなかったが、2011年(平成23年)に発生した東北地方太平洋沖地震東日本大震災)は超巨大地震のメカニズムに対し新たな知見を与えるものとなり[31][32]、また南海トラフにおいても過去に宝永地震と同等またはそれ以上と考えられる過去の複数の地震痕跡が発見された[33]

小山順二(2013)らは、本地震は南海トラフの海溝軸の方向に沿って複数のセグメントの断層破壊が進展したと推定し、陸側と海溝側の二重の震源域のセグメントに跨って断層破壊した東北地方太平洋沖地震とは発生過程が異なるとした。南海トラフは平常時は地震空白域を形成し、低角のプレートの沈み込み帯であって強いプレート間の固着を示唆しており、このような従来「チリ型」と分類されてきた一重の震源域セグメント帯の沈み込み帯で発生した同タイプの巨大地震としては、1700年カスケード地震、1960年チリ地震および2010年チリ・マウレ地震が挙げられている[32]

震害は民家よりもむしろ等の大型の構造物に顕著な被害が目立ったことから、長周期地震動がより卓越していたとの指摘もあり、さらに震源域は安政地震より沖合いに仮定され、東端を駿河湾から銭洲方面へ南下させることが提唱されている[23]
規模宝永地震の震度分布[4][22][23]

マグニチュードの推定値には8.4から9.3まであるが、地震計などの観測網がない時代にあって古文書による各地の記録に基づく推定震度や津波の規模による推定に頼らざるを得ない歴史地震であり、かつ、マグニチュードの飽和が見られる巨大地震であるからその数値は不確定な要素を含む。

河角廣(1951)は規模Mk = 7. を与え[34]、これは M = 8.4に換算されている。しかしMk = 7. の小数点部分は未定である[注 4]。宇佐美龍夫(1970)はこの河角の規模と気象庁マグニチュードの関係を検討し、昭和地震より規模が大きいことから8.4に近いであろうと推定したが、この当時はモーメントマグニチュードという概念は存在せず、1960年のチリ地震もM 8.5とされていた[35]。その後、マグニチュードは8.6[36] に変更され宇津徳治(1999)はその根拠を示していないが、安政東海地震M 8.4と安政南海地震M 8.4のエネルギーを足し合せたものと考えられている[37]

安藤(1975)[38][39]は3個の断層を仮定したモデル、相田(1981)[40][41]は羽鳥(1974-81)による推定津波波高から南海トラフ沿いに5個の断層を仮定しモーメントマグニチュードMw8.7と推定しているが[42]、これも安政東海地震と安政南海地震を基に推定したものであり、その安政地震の断層パラメーターも昭和東南海南海地震を基に推定したものであった[43]。また、安中(2003)も4つの断層を仮定したモデルを提唱し[44]、古村(2011)は安中のモデルを日向灘まで延長した断層モデルを提唱している[25][45]

震度5の分布面積を楕円近似してS5 = π×420×330 km2として村松(1969)の式[46] でマグニチュードを推定するとM 8.8となり、震度6の分布面積ではS6 = π×350×250 km2としてM 8.9が見積もられている[4]。内閣府の「南海トラフの巨大地震モデル検討会」による「南海トラフ沿いの巨大地震による長周期地震動に関する報告」では、Mw8.87の断層モデルが想定されている[47]

石川有三(産総研)は、古文書の記録から推定した余震域の面積と震度6以上の地域の距離から、宝永地震の規模はそれぞれM 9.1、9.3と算出したと、2011年の日本地震学会で発表した[注 5][48][49]。また、上記の相田(1981)の断層モデルでは済州島に達した津波を説明できず、村松(1969)の式は、宝永地震と比較し得る地震の震度分布のデータが不足していた時代のものであったため特に大規模な地震のマグニチュードは正確に見積もれないとされる[50]
被害

震度6以上と推定される地域は、駿河より西の東海地方沿岸部から、大阪平野奈良盆地紀伊半島、四国、九州東部の豊後日向まで及び、さらに甲斐信濃など内陸部、出雲杵築地方など日本海側にも一部震度6と推定される地域が分布した。


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