伊豆の下田では家数925軒の内、857軒が津波で流失し、55軒が半潰れとなった。下田では元禄津波の被害も受けているが、この時は492軒の流失であった(『下田年中行事』)。下田市の口碑に「七軒町」は昔津波の時に家が七軒残ったためそう呼ばれるようになったとあり、元禄12年(1699年)の『下田町水帳』にはこの町名は見えず、元禄津波より宝永津波の方が被害が大きいことから、これは宝永津波を指すと考えられている[141]。
浜名湖が太平洋とつながる今切は津波によって1里(約3.9 km)もの大口を開け、遠州灘と湖とを隔てる半島は切り離され島となり、半島にあった新居関・新居宿と共に流失し不通となり、浜名湖北岸を迂回する本坂通が大いに賑わったという。その後、宿場町は移転を余儀なくされ、宝永5年正月(1708年)から工事が始まり、3月から4月に移転が完了した。この結果、新居-舞阪間の渡船路は一里半(約5.9 km)となった[142][143]。白須賀も残らず震潰れた後津波で流失したため、地震以後白須賀宿は汐見坂を登った高台へ移転し、元の宿場町は元町と呼ばれるようになった(『白須賀町誌』[144])。