宝永地震
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萩谷15.5-16m8m[128]8-10m[19]
龍・青龍寺現・高知県土佐市亡所、青龍寺客殿斗残、蟹ガ池海ニ没ス『谷陵記』/青龍寺本堂石段の手洗場まで押し寄せる25m[21][133]
須崎現・高知県須崎市亡所、潮ハ山迄(中略)湊ヨリ湧入ル潮ニ、溺死スル者三百余人、今在家モ亡所『谷陵記』12.6m[130]9m、
吾井郷13m神田18m[21]5-6m[128]
須崎付近沖の舟より陸へ浪の上るを見積に高さ一町程も逆登と見え、又陸に居て入来る浪の高さを積るに雲へ与えたる様に思ハれさりとや『宝永地震記』安和22.6m[134]100m位遡る様に見えた
久礼現・高知県中土佐町亡所、潮ハ南ハ逢坂谷迄(中略)北ハ焼坂ノ麓迄『谷陵記』 / 長沢ミドノコエツナミ『熊野神社震災碑』海岸24m、
焼坂25.7m[130]八幡宮9-9.5m、
内陸20-26m8.1m[135]20-22m[132]
入野現・高知県黒潮町亡所、潮ハ山迄、此浜ノ松林八幡賀茂ノ両社潮入ト云ヘドモ流レズ『谷陵記』上川口7.5-8.5m
蜷川10-14m加持17m[134]8.8m[135]
下ノ加江現・高知県土佐清水市亡所、潮ハ苣(チシャ)ノ木迄、浜ヨリ行程一里、故ノ市井ハ海底ニ沈淪シ『谷陵記』13-14m15m[136]
大岐現・高知県土佐清水市亡所、潮ハ山迄『谷陵記』 / 念西寺の石段の最下段迄に来ると(口碑)15-16m約15m[136]10m[135]
清水現・高知県土佐清水市蓮光寺の石段を上より三段の所に及ぶとも云へり『土佐清水市史』15m14.6m[136]6.4-13.5?m[135]
宿毛現・高知県宿毛市亡所、潮ハ和田ノ奥、或ハ牛ノ瀬川ヲ限ル『谷陵記』5-6m
宿毛大島現・高知県宿毛市当浦ハイタカ神社の石垣踏み段三つ残る『大島庄屋家記』9m9.8m[129][137]
伊予宇和島現・愛媛県宇和島市枡形辺新町元結木持筒町佐伯町辺夥敷汐床之上へ四五尺所ニより其余も汐上り『伊達家御歴代時記』5m[127]5.1m[129]
豊後杵築現・大分県杵築市大形浜ニ汐上ヶ申候『杵築町役所日記』1.5-2m[138]1.5-2m[125]
豊後佐伯現・大分県佐伯市養福寺迄も汐差込、(中略)石壇二ツ計り残り申候『宝永四亥年高潮之記録』城下3.5-4m[138]米水津11.5m[139]
日向土々呂現・宮崎県延岡市土々呂市振、波にとられ、家跡海に成、深さ壱丈『日向雑記』4-4.5m[138]3m[19]
肥前長崎現・長崎県長崎市酉刻高潮満ち諸所破損『長崎建立并諸記挙要』3.5m[140]2m[138]
大隅種子島現・鹿児島県南種子町庄司浦人家十余流失『南種子町郷土誌』7.9m[140]5-6m[138]6m[112]

被害
東海道

伊豆下田では家数925軒の内、857軒が津波で流失し、55軒が半潰れとなった。下田では元禄津波の被害も受けているが、この時は492軒の流失であった(『下田年中行事』)。下田市の口碑に「七軒町」は昔津波の時に家が七軒残ったためそう呼ばれるようになったとあり、元禄12年(1699年)の『下田町水帳』にはこの町名は見えず、元禄津波より宝永津波の方が被害が大きいことから、これは宝永津波を指すと考えられている[141]

浜名湖が太平洋とつながる今切は津波によって1里(約3.9 km)もの大口を開け、遠州灘と湖とを隔てる半島は切り離され島となり、半島にあった新居関新居宿と共に流失し不通となり、浜名湖北岸を迂回する本坂通が大いに賑わったという。その後、宿場町は移転を余儀なくされ、宝永5年正月(1708年)から工事が始まり、3月から4月に移転が完了した。この結果、新居-舞阪間の渡船路は一里半(約5.9 km)となった[142][143]。白須賀も残らず震潰れた後津波で流失したため、地震以後白須賀宿は汐見坂を登った高台へ移転し、元の宿場町は元町と呼ばれるようになった(『白須賀町誌』[144])。


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