この本震の約16時間後の翌朝卯刻(6時頃)には富士宮付近を震源とする強い地震(宝永富士宮地震) (M 7.0) があり、江戸(『隆光僧正日記』)、富山(『吉川随筆』)および名古屋(『鸚鵡籠中記』)でも強く揺れ、村山浅間神社の社領で残らず潰家、富士宮や東海道筋などで寺社建造物の倒壊や死者の発生があった[94][95][96][97]。
地震の49日後の11月23日(12月16日)には富士山の側面で大噴火(宝永大噴火)が起こり、江戸では数- 10数cmの火山灰が積もった。この噴火によって富士山には側火山である宝永山が出現した。また、翌年の宝永5年1月22日巳 - 午刻(1708年2月13日10-12時頃)には宝永地震の最大余震と見られる紀伊半島沖を震源とする地震があり、京都(『雑事日記』)、および名古屋(『鸚鵡籠中記』)でも強く揺れ、津波が発生し紀伊では塩田が浸水(『海南郷土史』)、伊勢では山田吹上町、一本木に及び、宮川の堤防が破れた(『神宮文庫本』)[95][94]。
土佐における余震で顕著な強震を記録したものは以下の通り[98][99]。
宝永4年11月16日(1707年12月9日)、酉中刻(18時)、大地震に次いでの強震。
宝永4年11月26日(1707年12月19日)、朝巳の上刻(10時)また大いに地震す、巳時大地震16日に比べ又甚。名古屋、京都でもゆれる。
宝永4年12月11日(1708年1月3日)、夜半大震。
宝永5年閏1月1日(1708年2月22日)、震甚。
宝永5年閏1月2日(1708年2月23日)、辰の上刻(8時)甚震、亥刻震その後大震。名古屋でも地鳴り。
宝永5年閏1月27日(1708年3月19日)、辰刻地震。大坂では10月4日以来の大震、名古屋、伊勢、鳥取など広い範囲で強い地震。
宝永5年2月25日(1708年4月15日)、夜寅(4時)の刻地震頗る大也。名古屋、京都、大坂でもゆれる。
宝永5年8月18日(1708年10月1日)、甚震五度。
宝永5年12月1日(1709年1月11日)、夜大地震東南の空数度轟鳴。名古屋でも地鳴り。
宝永6年3月11日(1709年4月20日)、卯刻(6時)、地震稍大。
宝永6年4月22日(1709年5月31日)、酉の下刻地震頗る大也、亥の刻(22時)又震、先の震より大也。
半年余り経た宝永5年3月頃でも毎日1-2あるいは5-6回の余震が続き、羽根(現・室戸市)では宝永5年8月・9月(1708年10月前後)でも少ない日は1-2回、多い日は6-7回の余震があった。3、4年の間は時々地震有り、『三災録』には「辰巳両年(正徳2、3年、1712年、1713年)も折々小震有り未だ治せず、午年(正徳4年、1714年)も同断、未年(正徳5年、1715年)に至りて治す」とあり、余震は8年後まで続き、享保元年(1716年)には一応収束した[98]。 本震に影響を受け、震源域および余震域から離れた地域でも規模の大きな誘発地震が発生している[94]。 本地震は津波による被害が主であり[100]、津波は房総半島、伊豆、八丈島から九州、種子島にわたる太平洋海岸沿いに加えて、伊勢湾、豊後水道、瀬戸内海、および、大阪湾まで入り込んだ。下田では5- 7m、紀伊半島で5- 17m、阿波で5- 9m、土佐で5- 26mと推定され、被害は特に土佐湾沿いで甚大であった[101]。津波は長崎、済州島、および上海にも達し被害をもたらした記録も存在している[21]。清の記録では、『湖州府志』の康熙46年10月4日(1707年10月28日)の条項に「河水暴張。地震。」とある[102]。この津波の波源域は全長600kmにも達し、1952年カムチャツカ津波の600km、1960年チリ津波の800km、1964年アラスカ津波の700kmといった20世紀の世界の巨大津波に劣らない規模であった[103]。
誘発地震
宝永地震の本震の24日後、宝永4年10月28日卯刻(1707年11月21日6時頃)、長門国佐波郡上徳地村(現在の山口県山口市徳地)で局地的な地震(倒壊家屋289戸、死者3人『毛利十一代史』)。
宝永地震の本震の7年後の正徳4年3月15日戌亥刻(1714年4月28日21時頃)、信濃小谷地震。信濃国安曇郡小谷村付近(現在の長野県北安曇郡小谷村域および白馬村域)でM 6 1/4程度の地震。
津波
波高