宝永地震
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その後、マグニチュードは8.6[36] に変更され宇津徳治(1999)はその根拠を示していないが、安政東海地震M 8.4と安政南海地震M 8.4のエネルギーを足し合せたものと考えられている[37]

安藤(1975)[38][39]は3個の断層を仮定したモデル、相田(1981)[40][41]は羽鳥(1974-81)による推定津波波高から南海トラフ沿いに5個の断層を仮定しモーメントマグニチュードMw8.7と推定しているが[42]、これも安政東海地震と安政南海地震を基に推定したものであり、その安政地震の断層パラメーターも昭和東南海南海地震を基に推定したものであった[43]。また、安中(2003)も4つの断層を仮定したモデルを提唱し[44]、古村(2011)は安中のモデルを日向灘まで延長した断層モデルを提唱している[25][45]

震度5の分布面積を楕円近似してS5 = π×420×330 km2として村松(1969)の式[46] でマグニチュードを推定するとM 8.8となり、震度6の分布面積ではS6 = π×350×250 km2としてM 8.9が見積もられている[4]。内閣府の「南海トラフの巨大地震モデル検討会」による「南海トラフ沿いの巨大地震による長周期地震動に関する報告」では、Mw8.87の断層モデルが想定されている[47]

石川有三(産総研)は、古文書の記録から推定した余震域の面積と震度6以上の地域の距離から、宝永地震の規模はそれぞれM 9.1、9.3と算出したと、2011年の日本地震学会で発表した[注 5][48][49]。また、上記の相田(1981)の断層モデルでは済州島に達した津波を説明できず、村松(1969)の式は、宝永地震と比較し得る地震の震度分布のデータが不足していた時代のものであったため特に大規模な地震のマグニチュードは正確に見積もれないとされる[50]
被害

震度6以上と推定される地域は、駿河より西の東海地方沿岸部から、大阪平野奈良盆地紀伊半島、四国、九州東部の豊後日向まで及び、さらに甲斐信濃など内陸部、出雲杵築地方など日本海側にも一部震度6と推定される地域が分布した。江戸、京都でも震度4- 5と推定されるが被害は比較的軽度であり、京都では東本願寺などで堂が破損し(『松尾家累代日記』)[51]東寺五重塔九輪が落下(『大坂大地震津浪之事』)[52]、江戸津軽藩邸は土蔵の壁が破損した(『御日記』)[53]。奈良の東大寺では東南院の塀が裏門より東側が残らず崩れ、東大寺領分の家が349軒の内18軒崩れた(『東大寺年中行事記』)[54]。震度4以上の領域は九州から甲信越地方に及び、陸奥国の八戸(現・青森県八戸市)においても有感であった[22][55]。さらに『中国地震歴史資料彙編』の記録には浙江帰安(現・湖州市呉興区)において、「地震、水涌」とある[56]

地震の揺れによる被害は、東海道伊勢湾沿い、および、紀伊半島で最も顕著であり、袋井宿では建屋が残らず潰れ、白須賀宿も潰れた後津波で流失した。由比宿久能山駿府岡部宿、袋井宿等は幕府への被害報告に「四日昼八つ時同五日朝六つ時両度大地震ニ而…(『楽只堂年録』)」等と記載されているため、翌朝の富士宮の地震との被害の区別が困難である。家屋倒壊は駿河から土佐まで著しく、被害は出雲、越前、信濃など五畿七道に及ぶ[57]

東海道の被害状況は駿河以西で顕著であった[58]。地震8日後、幕府は目付2人を派遣して東海道筋の宿場町の被害状況を調査させた。また災害復旧については、東海道筋の幕府領にあった宿場町の内、例えば吉原宿から由比宿までの普請修復は松代藩真田家が手伝いを命じられ、幕閣内で地震担当を任ぜられた勘定奉行荻原重秀が真田家普請奉行本締役人に普請金の概算を内示して普請への取り組みを指示した。工事など普請実務は代官手代の指示を受けた幕府指定の江戸の請負町人の担当であったが、村普請も許容された。これらの宿場町の家作および道筋修復金の合計は14,93180であった。普請金の負担はすべて真田家であったが、被害を受けた村人らはこれを自覚せず幕府による御救いと見做したのが実態であった(『真田家文書』)[59]


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