宝暦の飢饉
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「宝暦飢饉記録」[注釈 10]によれば、宝暦5年から6年は、凶作の程度では元禄13年から14年(1700年から1701年)より収穫がよかったという記事がある。しかし、元禄期の凶作時には飢饉にまでは至らなかったが、宝暦期には餓死者が出るような飢饉になったのは「前年より御備米不足」のためだったという[22]。御備米が不足した原因としては、仙台藩が財政再建策として、領内の余剰米を買い上げて江戸などの大都市に廻送・売却する買米仕法を行なっていたことが理由としてあげられる。この施策は財政策としては成功していたが、飢饉によって米の買い上げ資金の調達が困難になり、この後の買米政策は不調となった[23]
米沢藩

米沢藩では、宝暦5年には春遅くまで寒さが厳しく、旧暦5月から降り続いた雨は夏中降り止まなかった。暑い日はほとんどなく、裏付きのを着るほどの寒さで7月末には吾妻山に雪が降り、8月中も長雨が続いた。その影響で洪水が発生し、堰や川の決壊で田畑は水びたしになった。洪水の被害面積は水田総面積の5割におよんだという。冷害により稲穂は実入りの無い青立ちとなり、洪水の影響もあって農作物の被害は甚大となった。幕府への報告によれば、被害総額11万3600石余、被害面積8580町余で、その損害は領内生産高の約70パーセントにおよんだ[注釈 11][注釈 12]。異常気象は、翌年、翌々年にも続き、宝暦6年の損耗高は5万3500石余、同7年の損耗高は8万2270石余となった[24]

宝暦3年(1753年)から翌4年(1754年)にかけて幕府から上野東叡山根本中堂と仁王門再建の普請手伝いを命じられていたこともあって藩財政は極度に窮乏し、上杉家伝来の数々の宝物を質物にして金を融通してもらうこととなった[25]

宝暦5年の8月になると城下の米が払底し、上米1俵の値段を1貫730文から1貫500文に引き下げたが、かえって市中に米が出回らなくなった。このため定値段政策を取り下げたが、11月中旬には1俵が3貫600文から700文にもなった。9月には農民と下級藩士が徒党を組み、払い米と米価の引き下げを求めて城下の富商に打ちこわしをした[26]。翌6年には窮民が続出し米価は高騰した。そのため藩は宝暦6年8月から9月にかけて城下東の河原に建てた仮小屋で施粥をし、城下の富商も米を供出した。この施粥には老若男女が列を作り、1日1200人から1300人が集まったという[27]

この飢饉により米沢藩では10000人近くの人口減少となった[28]。凶作の被害は山間部の農村ほど大きく、中津川郷の山村では20人の餓死者を出し、24人が一家離散した。農村では禿百姓(つぶれびゃくしょう)[注釈 13]や欠落村落[注釈 14]が各所で発生した。城下には飢人があふれ、藩は城下東の河原に「仮小屋」を設けて施粥を行なった[29]

米沢藩は、宝暦3年から7年間で人口が966人減少し、総人口も10万人を割った[注釈 15][30]
宝五騒動

米価高騰への対策として、藩は宝暦5年に米を定価にする価格統制を行なおうとしたが、城下町の米屋や富商は従わず、米を隠匿して市場に出さなかった。宝暦5年9月から10月にかけて、米沢・山形・天童といった都市部で米価高騰に不満を抱いた民衆による米騒動が相次いで発生し、米屋などが打ちこわされた。

同年9月、城下の南郊南原に居住する下級藩士が先頭に立ち、南部の農村の関村や李山村の百姓700人から800人を集めて、城下の馬口労町、南町、紺屋町の酒屋や富商の家に押し掛けた。そして、蔵の中を見せないのは不届きだと乱暴し、発見した米を粥にして振る舞うことを要求した。同9月10日、置賜郡李山・関山両村百姓500人から600人が米沢城下に繰り出して、蓄米の風聞があった馬口労町酒屋勘兵衛宅に押し入り「乱妨」した。藩は払米を渡すことを約束して引き取らせたが、13日には「諸士不肖ノ者」「軽き奉公人」の南原左衛門宅に押し込み土蔵を打ち破った。この9月10日の騒動も南原の下級藩士が企んだと伝える史料もある[注釈 16][31]

藩ではこれに対して、蔵米を1人につき3升ずつ払い米とし、在方や町在の困窮者を対象に、米を一定値段で売り払うこととした。しかしこの価格が高すぎるというので、再び百姓400人から500人が城下の立町、鍛冶町などの富商の家になだれ込み乱暴狼藉を働いた。これらの暴徒は町奉行が配下を使って鎮圧したが、藩は一度決めた米価を撤回して自由販売に戻し、米を原料とする酒や菓子類の製造を禁止した。そして家中藩士に藩財政の逼迫と凶作の惨状を訴えて家臣の結束を呼びかけたことで、領内は平穏を取り戻した。

翌年、徒党の首謀者である下級藩士4人が磔刑および斬罪となった。彼ら下級藩士たちは、藩の幕府への手伝普請などによる財政悪化の影響により、宝暦4年分の扶持米をろくに支給されておらず、さらに翌5年の凶作による米値上がりで窮迫し、徒党を組んだのであった[32]
新庄藩

「豊年瑞相記」[注釈 17]によると、新庄藩では宝暦5年は春から天候が悪く、夏の土用になっても冷涼な気候でを着て農作業をしなければならないほどで、稲の生育は遅れ8月(旧暦)になってようやく出穗を見たが、同月18日の夜には霜が降り、稲・蕎麦などに損害を与えたという。9月下旬の新米収穫時期となっても未熟で青米や粃が多く、蒸米や燻米にして2升、3升と掻き集めて年貢米とした。10月27日にはかなりの降雪があり、稲刈りに支障を来して、そのまま雪の下に埋もれてしまう稲も多かった。「末世之立鏡」[注釈 18]には、山に近い村里では夏中寒風がしきりに吹きつけて、場所によっては一粒も実らなかったとある[6]

山際の村に猿・鹿が現れ、作物を荒らし回った。刈り取った稲を屋内のに架けて乾かしたが、小さい家ではそのようにはできず、積み重ねておいた稲は中から蒸れて納豆のようになってしまった。刈り取った際には幾分か中身があるように見えても、脱穀すると粃ばかりで、擂臼にかけると灰のようにとんでしまった。早稲・中稲の収穫はわずかでもあったが、晩稲の収穫は皆無だった。稲作に詳しい古老の見立てでは平均1分5厘作であった[33]

新米は市場に出回らず、米価は高騰した。前年は1升13文から14文だったが、宝暦5年6月には1升で25、26文。12月には46文、翌6年正月には町では米1升57文、4月に65文、5月に70文、6月初めには82文にまで上昇した。ほかにも宝暦5年12月には大豆1升30文、小豆は42文から43文だった[34]

困窮した人々は、武士、農民、町人を問わず、みな山野に入って蕨根を掘り、蕨粉に青米・砕け米の粉などを合わせて食べた。このほか、野びるよもぎふきうるいあざみ・がざの葉・山牛蒡たんぽぽ松皮餅など、様々なものを食糧とした。


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