宝塚市
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岩原山(573m) 、大峰山(552m) 、譲葉山(514m) 、社家郷山(489m) 、岩倉山(488m)、中山(478m) 、樫ヶ峰(457m)
人口

市制施行時は約4万人であったが、大阪・神戸のベッドタウンとして宅地開発が進み、人口は増加した。

2010年の国勢調査で22万5587人に達して以降は横ばいとなっている。


宝塚市と全国の年齢別人口分布(2005年)宝塚市の年齢・男女別人口分布(2005年)
■紫色 ― 宝塚市
■緑色 ― 日本全国■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性
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現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。

宝塚市(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より



隣接する自治体・行政区

川西市満願寺町満願寺の周辺)が飛地として市内に存在する。

大阪市への通勤率は22.5%である(平成22年国勢調査)。

神戸市北区

伊丹市

西宮市

川西市

三田市

川辺郡猪名川町

歴史
地名の由来

宝塚の「塚」は、「盛り土をした墓(古墳)」を意味する。宝塚は文字通り古墳の名称であるが、宝塚には古墳が多くあり、宝塚と呼ばれていた古墳に関しては諸説あって場所が特定されていない。江戸時代には「宝塚」の地名が使われていた。(後述)
旧川面村川面に宝塚と呼ばれていた古墳があり、近隣の新田(現:御殿山)も宝塚と呼ばれた[2]1672年検地記録に、川面村の小字として宝塚東・宝塚南・宝塚北が記されている。

宝塚山(ほうちょうざん)宝泉寺[* 1](現:宮の町)の地に、神功皇后の母である高額比売命(たかぬかひめのみこと)を祀った古墳があり、この高額塚(たかぬかつか)が宝塚(たからづか)へ転訛した。

旧米谷村(現:米谷)に塚があり、この塚の許で物を拾うと必ず幸せになったため、宝塚と呼ばれていた[3]

旧良元村伊孑志に宝塚と呼ばれていた古墳があった(現:宝梅)。

このように古くからある宝塚の名称は、明治になって温泉名や駅名となった後、1951年(昭和26年)に初めて市町村名として採用される。
沿革
先史・古代

4世紀頃から7世紀にかけて、多くの古墳が造られる。

7世紀初期より、中山寺売布神社などの寺社が創建される。

10世紀後半、摂関家の私(まき)として川面牧が成立する。

中世

12世紀、川面牧が荘園化し川面荘となり、米谷庄など新たな荘園も成立する。

1223年貞応2年)「小林の湯」(後の宝塚温泉)の記録がなされる。

15世紀末、小浜庄が成立、毫摂寺創建により小浜が寺内町として発達する。

近世

武庫川左岸は摂津国川辺郡、右岸は同武庫郡に属す。

16世紀後半、山本村で接ぎ木手法が発見され、豊臣秀吉の庇護の下、植木産業の礎が築かれる。

17世紀有馬街道宿場町として小浜宿が設けられ、徳川幕府の庇護の下繁栄する。

小浜宿の設立とともに酒造が発達(小浜流)。灘五郷に先立つ大酒造業地となるが、18世紀から次第に灘五郷へ譲渡され消滅。

明治以降

1887年明治20年) - 宝塚温泉が開業。

1897年(明治30年) - 武庫川が氾濫する。 阪鶴鉄道(現在の福知山線(JR宝塚線)大阪?宝塚間)が開通。

1902年(明治35年) - 宝来橋完成。

1910年(明治43年) - 箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚本線)が開通。


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