定型詩
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だが8世紀の『万葉集』になると、既に「五・七・五・七・七」の形式が全体の9割を占める[5]

室町時代に和歌から俳諧が独立し、江戸時代には俳諧を母体に、松尾芭蕉らにより俳諧の発句のみを独立して創作・鑑賞する概念が生まれた。これを明治時代正岡子規らが詩の一形式として独立させたのが俳句である[6][7]

明治時代以降になると、従来の音数律に従わない自由律が発展を見せた。前田夕暮などが自由律短歌を、河東碧梧桐荻原井泉水らが自由律俳句を唱えた[8]

ただ、自由律の登場で従来の定型が廃れることはなく、自由律は一つの形式として認められているが、歌壇・俳壇は「五・七・五・七・七」「五・七・五」という定型が依然として中心である。

金子光晴は定型詩について繰り返し何度も書き、定型と押韻の魅力について語っている。金子はとくに高踏派(パルナシアン)の詩や、ゴーチェの詩や、ボードレールの詩など、本物の定型詩を熟知する人である。金子が第一回の渡欧から帰ったのは、大正の口語自由詩の全盛時代で、若い金子はその跋扈ぶりに憤りすら感じ、「楽園」という自由詩に批判的な雑誌を作ったりした。しかし金子は定型詩の陥穽をも知悉していて、「うしろ向き」にならないように、「意気がり」にならぬようにと説いた。[9]

飯島耕一によれば、日本語の詩に定型を求める議論は40年に一度回帰するという。それを受け君野隆久は以下のように整理した。[10]

1900年前後の正岡子規岩野泡鳴の実作と論考

1940年前後の九鬼周造の押韻論やマチネ・ポエティクの実作

1980年代末に飯島自身が関わった定型論争

脚注^ 『日本国語大辞典 9』、小学館、2001年第2版、547頁「定型詩」項。
^ a b c d e f g h i j 『ブリタニカ国際大百科事典 8』、TBSブリタニカ、1991年第2版改訂、449-454頁「詩」項。
^ a b c 『日本大百科全書 16』、小学館、1987年、36-37頁「定型詩」項(新倉俊一[要曖昧さ回避]著)。
^ 『世界文学大事典 5』、集英社、1997年、539-540頁「定型詩」項(安藤元雄著)。
^ 『世界大百科事典 17』、平凡社、2007年改訂新版、450-452頁「短歌」項(佐佐木幸綱著)。
^ 『日本大百科全書 18』、小学館、1987年、502頁「俳諧」項(乾裕幸著)。
^ 『世界大百科事典 22』、平凡社、2007年改訂新版、321-322頁「俳句」項(坪内稔典著)。
^ 『日本国語大辞典 6』、小学館、2001年第2版、1317頁「自由律」項。
^ 飯島耕一 (1991). “ふたたび「定型恐怖」について”. 象形文字. 
^ 君野隆久 (2001). “九鬼周造「日本詩の押韻」覚え書”. 文学における近代 : 転換期の諸相 22: 63. 

関連項目

自由詩 - 対置される概念。

韻文詩

韻文

ヘクサメトロスアレクサンドラン、Pentameter(英語版)


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