中国では漢詩が、形式の制約のない古体詩より、五字、七字などの一定の文字数と句数、押韻が必須の条件の近体詩が発達した。詳細は「漢詩」および「近体詩」を参照 日本では押韻が発達しなかったが、音節の数を基本とする音数律の定型詩が発達した。すなわち、「五・七・五・七・七」の31音からなる和歌(短歌)や、「五・七・五」の17音からなる俳句や川柳である。七五調や五七調からなる新体詩も定型詩の範疇に入る[2]。 和歌の成立に関しては今でも詳らかになっていないが、7世紀(飛鳥時代)の舒明天皇期には既に定着し、成立はそれよりも遡るとされる。『古事記』や『日本書紀』の時代の記紀歌謡には、既に短歌形式と見受けられる作品もあるが、この時点では揺籃期とみなせる。だが8世紀の『万葉集』になると、既に「五・七・五・七・七」の形式が全体の9割を占める[5]。 室町時代に和歌から俳諧が独立し、江戸時代には俳諧を母体に、松尾芭蕉らにより俳諧の発句のみを独立して創作・鑑賞する概念が生まれた。これを明治時代に正岡子規らが詩の一形式として独立させたのが俳句である[6][7]。 明治時代以降になると、従来の音数律に従わない自由律が発展を見せた。前田夕暮などが自由律短歌を、河東碧梧桐や荻原井泉水らが自由律俳句を唱えた[8]。 ただ、自由律の登場で従来の定型が廃れることはなく、自由律は一つの形式として認められているが、歌壇・俳壇は「五・七・五・七・七」「五・七・五」という定型が依然として中心である。 金子光晴は定型詩について繰り返し何度も書き、定型と押韻の魅力について語っている。金子はとくに高踏派(パルナシアン)の詩や、ゴーチェの詩や、ボードレールの詩など、本物の定型詩を熟知する人である。金子が第一回の渡欧から帰ったのは、大正の口語自由詩の全盛時代で、若い金子はその跋扈ぶりに憤りすら感じ、「楽園」という自由詩に批判的な雑誌を作ったりした。しかし金子は定型詩の陥穽をも知悉していて、「うしろ向き」にならないように、「意気がり」にならぬようにと説いた。[9] 飯島耕一によれば、日本語の詩に定型を求める議論は40年に一度回帰するという。それを受け君野隆久
日本における定型詩
1900年前後の正岡子規、岩野泡鳴の実作と論考
1940年前後の九鬼周造の押韻論やマチネ・ポエティクの実作
1980年代末に飯島自身が関わった定型論争
脚注^ 『日本国語大辞典 9』、小学館、2001年第2版、547頁「定型詩」項。
^ a b c d e f g h i j 『ブリタニカ国際大百科事典 8』、TBSブリタニカ、1991年第2版改訂、449-454頁「詩」項。
^ a b c 『日本大百科全書 16』、小学館、1987年、36-37頁「定型詩」項(新倉俊一[要曖昧さ回避]著)。