官営八幡製鐵所
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(事務取扱)副島千八:1924年11月6日 - 1924年12月1日

中井励作:1924年12月1日 - 1925年3月31日


商工省

中井励作:1925年4月1日 - 1934年1月27日

(兼務)吉野信次:1934年1月27日 - 1934年1月29日


近代化産業遺産として東田第一高炉跡。「1901」は操業開始の1901年を表す世界遺産の旧本事務所遠賀川水源地ポンプ室南河内橋

近代化産業遺産(The Imperial Steel Works, Japan (ID1484-022) )として認定されている。

明治20年代に急増した鉄鋼需要を補うため、1897年、筑豊炭田に隣接し誘致活動が活発だった八幡に製鉄所を設置することが決定する。ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ(GHH)社に設計を依頼し、技術指導を受けた。4年の建設期間を経て、1901年2月に東田第一高炉に火入れが行われ稼働が開始する。しかし、トラブルや資金難により翌1902年7月には休止を余儀なくされたため、釜石田中製鉄所で日本初のコークスによる銑鉄生産を成功させた野呂景義に再建が託される。野呂は高炉の改良と新たなコークス炉の建設を行い、1904年7月から本格稼働を再開した。これにより、日本の高炉操業技術が確立され、日本の産業近代化(重工業化)が達成される。製鉄所は1930年代にかけて拡張され、周辺にも多くの産業が集積し、北九州工業地帯の主要拠点となった。事業所内にあり秘密保持に懸念があることや老朽化していることから、いずれの施設も見学はできない[9][10]。登録面積は1.71 ha(緩衝地域33.81 ha)である[11]
旧本事務所

1899年に建設された赤煉瓦組積造の建物。製鐵所の技術者による設計。骨組はクイーンポストトラス組み、煉瓦積みはイギリス式の一方、屋根は和式の瓦葺。1922年まで本事務所として使用された後、鉄鋼の研究所として使用された。見学不可だが、2015年4月に眺望スペースが設けられて遠景を見ることが可能となり、登録後から個人利用に限り写真撮影が認められている[10][12][13]
修繕工場

1900年に建設された鉄骨造の建物。設計及び使用鋼材はGHH社による。現存する日本国内最古の鉄骨建築物。3回に亘り増築されたが、使用された鋼材がドイツ製から次第に日本製へと変わり、日本の製鉄技術が発展する過程を示すものとなっている。現在は新日鉄住金の主要な協力会社の一つである山九により、製鉄所で使用する機械の修繕や部材の製作が行われ、現在も稼働中。見学は不可[10]
旧鍛冶工場

1900年に建設された鉄骨造の建物。設計及び使用鋼材はGHH社による。製鉄所で使用する鍛造品の製造が行われ、大正時代に現在の場所に移転してからは製品試験所として使用された。現在は創業時からの資料を保管する史料室となっている。見学は不可[10]
関連施設

遠賀川水源地ポンプ室 - 世界遺産の構成資産の一つ。

河内貯水池 - 「河内貯水池堰堤」と「南河内橋」は土木学会選奨土木遺産に認定されており[14]、南河内橋、中河内橋、北河内橋は近代化産業遺産の構成資産である[15]

くろがね線 - 近代化産業遺産の構成資産の一つ[15]

年表

1896年(明治29年)3月28日 - 帝国議会第九議会が製鉄所の創立を決定。

1897年(明治30年)2月6日 - 製鉄所を八幡村に設置すると決定。

1897年(明治30年)6月1日 - 八幡村に官営製鐵所を開庁。

1901年(明治34年)2月5日 - 東田第一高炉火入れ。5月に製鋼工場、6月に中形工場・小形工場(いずれも条鋼用を圧延する工場)・鋼板工場、11月に軌条工場が操業を開始。

1901年(明治34年)11月18日 - 作業開始式を挙行。伏見宮貞愛親王平田東助農商務大臣が出席[16]

1902年(明治35年)7月 - 東田第一高炉・転炉休止。

1904年(明治37年)4月 - 大形工場(大形の条鋼を圧延)が操業開始。

1904年(明治37年)4月6日 - 東田第一高炉第二次火入れ。17日間で休止。

1904年(明治37年)7月23日 - 東田第一高炉第三次火入れ。

1905年(明治38年)2月25日 - 東田第二高炉火入れ。

1905年(明治38年)12月 - 厚板工場が操業を開始。

1906年(明治39年) - 第一期拡張工事開始[17]

1907年(明治40年)1月 - 線材工場が操業を開始。

1909年(明治42年)10月 - 東田第三高炉火入れ。

1912年(大正元年) - 中空ロール機導入(イリス商会による)。

1913年(大正2年) - セメント製造開始(日鉄住金高炉セメントの起源)。

1914年(大正3年)4月 - 東田第四高炉火入れ。

1917年(大正6年) - 電気炉を新設。

1917年(大正6年)9月30日 - 九州製鋼株式会社設立。

1917年(大正6年)11月1日 - 東洋製鐵株式会社設立。

1918年(大正7年)12月 - 東田第五高炉火入れ。

1919年(大正8年)5月12日 - 東洋製鐵で高炉火入れ(後の戸畑第二高炉)。

1921年(大正10年)4月 - 東田第六高炉火入れ。

1921年(大正10年)4月16日 - 官営製鉄所が東洋製鐵の工場を借入れ。

1922年(大正11年)10月 - ブリキ(当時は熱漬ブリキ)の製造を開始。

1924年(大正13年)11月 - 戸畑作業所で2基目の高炉に火入れ(後の戸畑第一高炉)

1928年(昭和3年)11月7日 - 九州製鋼の製鋼工場(通称西八幡工場)が操業開始を開始、同時に官営製鉄所が借入れ。月内に厚板工場が操業開始。

1929年(昭和4年)1月 - 九州製鋼の大形工場が操業開始。

1930年(昭和5年)2月 - 専用鉄道(炭滓線、現・くろがね線)運転開始。

1930年(昭和5年)6月17日 - 洞岡第一高炉火入れ。

1933年(昭和8年)10月11日 - 洞岡第二高炉火入れ。

1934年(昭和9年)1月29日 - 官営製鐵所や九州製鋼などが合同し、日本製鐵(日鉄)発足。日鉄八幡製鐵所となる。2月1日より正式に営業開始。

社会への影響

1917年3月、長期に渡る
贈賄収賄の事実が公になった刑事裁判事件官営八幡製鉄所事件があり、長官押川則吉は自死し、関係者110人が逮捕された。当時は起訴便宜主義がまだ採用されておらず、検事総長平沼騏一郎、検察官小原直小林芳郎などが調査・起訴にあたった[18][注釈 2]


1966年、民事裁判事件八幡製鉄事件の最高裁判決により、企業による政治献金が営利法人の政治活動として認められるようになった。

関連項目

近代化遺産近代化産業遺産稼働遺産世界遺産土木学会選奨土木遺産


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