宗谷岬
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通称は宗谷岬平和公園[15]
公園施設
日本最北端の地の碑
北極星の一稜をモチーフにしたデザインになっており[16]、中心にあるNの文字は「北」(North)を、台座の円形は「平和と協調」を表している[17]。石碑の高さは緯度(北緯45度31分22秒)にちなみ4.53メートルである。1961年昭和36年)に初代の石碑建立後、1968年(昭和43年)に正確な最北端の位置に現在の2代目石碑が建立された[18]1988年(昭和63年)には周辺に駐車場と広場を設置するため海岸を埋め立て、広場の最も北側の場所に移設した[18][19]
間宮林蔵の立像
1808年文化5年)に宗谷から樺太へ渡り、樺太がであることを発見(間宮海峡の発見)した間宮林蔵の偉業を称え、青少年に世界へ羽ばたく夢と勇気を培ってもらおうという願いを込め、生誕200年となる1980年(昭和55年)に建立した[4][20]。当初は岬より3 km南西寄りの第2清浜地区にある、間宮林蔵が樺太に出港したとされる場所(間宮林蔵渡樺出港の地)に建立されたが、1988年(昭和63年)に現在地に移設されている。
宗谷岬音楽碑
1980年(昭和55年)に建立し、黒御影石に「宗谷岬」の歌詞と楽譜を刻んでいる[21]2002年平成14年)には誕生30周年を記念して「30周年記念音楽碑」を建立し、スイッチを押すと千葉紘子の歌うメロディが流れるようになっている[21]
旧海軍望楼
詳細は「大岬旧海軍望楼跡」を参照
宗谷海域海軍戦没者慰霊碑・平和の碑
「宗谷海域海軍戦没者慰霊碑」は、宗谷防備にあたり殉職した人々を鎮魂するため、1980年(昭和55年)に建立した[22]。「平和の碑」は、太平洋戦争のさなか1943年(昭和18年)に宗谷岬沖で大日本帝国海軍によって撃沈されたアメリカ海軍潜水艦ワフー」の乗組員80名と、日本海を北上してきたワフーによって沈められた関釜連絡船「崑崙丸」をはじめ、日本の商船5隻の犠牲者696名を慰霊するため、戦後50年にあたる1995年平成7年)に日米合同で建立した[23]
あけぼの像
北海道の牛乳生産量100万トン突破と飼育乳牛50万頭突破を記念し、1971年(昭和46年)に建立した[15][24]
ラ・ペルーズの碑
ルイ16世により太平洋探検を命ぜられたラ・ペルーズ(ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー)が、宗谷海峡(ラ・ペルーズ海峡)を発見したことを記念し、2007年(平成19年)に建立した[15]
宮沢賢治文学碑
1923年大正12年)に稚内から大泊(現在のコルサコフ)へ渡る連絡船(稚泊連絡船)の中で作詩したとされる『宗谷(二)』の一説を記した文学碑[25]
祈りの塔
1983年(昭和58年)に発生した「大韓航空機撃墜事件」は、稚内が調査や報道の前線基地になった[15]。2周忌となる1985年(昭和60年)に遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願うために建立した[26]。鶴を模した塔の高さ19.83メートルは事故発生年を、16枚の羽は遭難者の母国を、269枚の白御影石は遭難者の数を表しており[15]、嘴は事故海域となるモネロン島(海馬島)の方向を指している[15]。塔の周辺にはアルメリアを植栽している[16][26]
2つの平和の鐘
1988年(昭和63年)に世界の恒久平和を願うモニュメントとして、世界各国や稚内市民の募金などにより「世界平和の鐘」と「子育て平和の鐘」を建立した[15][27][28]。世界平和の鐘は、1号鐘(日本の平和の鐘)が国際連合本部ビル、2号鐘が宗谷岬公園の鐘、3号鐘が稚内市と友好都市を結んでいる沖縄県石垣市の新栄公園に設置している[27]
宗谷丘陵展望休憩施設
宗谷丘陵や宗谷海峡を一望することができる施設であり、1991年(平成3年)に完成した[18][29]。併設するレストランでは稚内ブランドの「宗谷黒牛」や北海道の食材を楽しむことができる(営業期間は4月下旬から11月上旬)[30]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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