宗尊親王
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宗尊親王が鎌倉に下る際には近衛左中将藤原隆茂、式乾門院蔵人重房、左近大夫石川新兵衛源宗忠の3人の近侍が随行したとされている。

当時の幕府は既に北条氏による専制体制を整えていたため将軍には何ら権限は無かった。そのため和歌の創作に打ち込むようになり、歌会を何度も行った。その結果、鎌倉における武家を中心とする歌壇が隆盛を極め、後藤基政・島津忠景ら御家人出身の有能な歌人が輩出された。鎌倉歌壇は『続古今集』の撰者の人選にも影響を及ぼし、親王自身も同集の最多入選歌人となっている。代表的な歌集に『柳葉和歌集』[1]、『瓊玉和歌集』[1]、『初心愚草』がある。

弘長3年(1263年)6月に宗尊親王が征夷大将軍として上洛することが発表され、8月9日には供奉する御家人の名簿と10月3日に鎌倉を出発する日程まで発表されていたが、25日は上洛が一転中止された。公式には災害を理由とするが、御家人の経済的負担の大きさが一番の理由とみられる。更に深読みをして前執権北条時頼の健康悪化(11月22日死去)や鎌倉にいた土御門顕方(権大納言で後嵯峨院の外戚)が皇位継承の可能性が残されていた宗尊親王を唆して京都で政変を画策していたことが発覚したからだとする説まである[9]

文永2年(1265年)9月、一品親王に叙されて、中務卿に任命されている。これは、後深草上皇・亀山天皇と共に後嵯峨上皇を支える皇族として認識されていたことの反映とみられる[8]

25歳となった文永3年(1266年)3月に宗尊親王の内々の使者として藤原親家が上洛。6月5日、親家が京から戻るが、後嵯峨上皇から宗尊へ正室近衛宰子に関する内々の諷諫を伝えている。19日には幕府の使者として諏訪盛経が上洛。20日には北条政村(執権)・時宗連署得宗)・実時安達泰盛による「深秘の御沙汰」が行われ、同日に幕府護持僧の松殿僧正良基が何らかの理由で御所を退出し逐電している。23日には宰子と娘の?子女王がにわかに時宗の山内殿に入り、嗣子の惟康王が時宗邸に入っている。この理由のわからぬ騒動で御家人たちが鎌倉に馳せ集まり、7月4日になると名越流北条氏北条教時が武装した軍勢を率いて示威行動を行い、時宗はそれを制止してその軽率さを叱責した[注釈 3]。同日、宗尊親王は女房輿で北条時盛邸に移り、8日に京へ送還された。

宗尊親王が将軍を解任され京へ送還されるに至ったくわしい事情は不明だが、宰子と良基の密通事件を口実に宗尊親王に謀叛の嫌疑がかけられ、将軍の解任と京への送還が決定されたとする見方もある[1]。また宗尊が宰子を離縁するような強硬な措置を取ろうとして父の後嵯峨上皇に相談したが後嵯峨はそれを好まず、幕府にとっても宗尊の行動は執権・連署との相談なしの独走であったため宗尊は孤立してしまったのではないかとする推測もある[10]

宗尊親王は20日に入京して北条時茂の六波羅邸に入り、宗尊の送還を知った両親は義絶を宣言する(『外記日記』『五代帝王物語』)。24日、鎌倉で惟康王が次の将軍に就いた。10月、宗尊は承明門院旧邸に移る。後嵯峨上皇による義絶を知った幕府は11月に武藤景頼を派遣して後嵯峨に取り成した上で、宰子と?子を京に送還し、宗尊の今後の生活のために所領5か所を献上するなど、これ以上罪を問うことはないことを明確にした[8]。宗尊は12月にようやく父後嵯峨上皇と対面している。

文永4年(1267年)9月4日に宰子は出家。文永7年(1270年)には宗尊の妻妾である堀川具教の娘が次男早田宮真覚を出産している。文永9年(1272年)2月、二月騒動で側近の中御門実隆が拘束された。その直後に父の後嵯峨法皇の崩御に伴うため出家[1]。法名は覚恵[1]、または行証(行勝)[1]。また同年、堀川具教の娘が次女瑞子女王を出産している。

文永11年(1274年)に33歳で死去。
宗尊親王真跡とされるもの

有栖川切

催馬楽切

古今集切

神楽歌切

などがあり、これ以外にも宗尊親王真跡とされるものは数多くあるが、その多くは、親王が愛玩あるいは愛好した平安時代の名筆と思われるものが多く含まれ、宗尊親王真跡であるか不明であるものが多いとされる。しかし名筆家であるという評価は揺るがない。
官歴

※日付=旧暦

寛元2年(1244年) 1月28日:立親王。


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