宗主権
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宗主は祖霊の位牌を指す語であり[9]、転じて(その祭祀を主導する)血族集団(宗族[注釈 2])の代表者を意味するようになった。中世以降は宗族の当主[10]や仏教門派の長[注釈 3]の義で専ら用いられ、また易経や医術書の注釈において散見される。国家間関係における指導的立場を表す用例は杜預[11]・司馬光[12]・宋濂[13]・丘濬[14]・朱謀?[15]らの少数がある。外交文書においてもベトナム西山朝光中帝の奏表[16]など使用は限られている。
藩属

現代中国語において藩属は「封建王朝の属地あるいは属国」の意味と理解されている[17]が、元来は藩部(国内少数民族等の自治領域)と属国(臣従する外国)を合わせた語であり、伝統中国の中でも清朝に固有の表現である[注釈 4][注釈 5]。とはいえ清朝自身においても、本来別個の存在である両者を必ずしもはっきり区別しないケースもあり、属国に対して「藩服」「外藩」「藩属」「藩封」等の表現を用いるなど、外部から見てその使い分けが明確であったとは言い難い。

19世紀中葉以降、列強のアジア進出による勢力圏・国際地位の動揺に直面した清では、従来秩序の伝統の重さゆえの大きな抵抗を受けながらも新たな対抗手段の獲得を模索した[18]清仏戦争に先立つ交渉局面では「中國の謂ふ所の属國は、即ち外國の謂ふ所の保護なり。……属國を存さんと欲さば、先づ保護の實を存すを必す」との認識が示され[19]、光緒三十年に西藏での対英紛争に際して交渉に当たった唐紹儀は「主國=騷付倫梯sovereignty」と「上國=蘇索倫梯suzerainty」の差異に執着し、「必ず主國たるを争い、……主権を外に移す勿らし」める姿勢を本国に説く[20]など、宗主権・保護権にかかわる文言を強く警戒している。しかし辛亥革命に前後する外モンゴル独立運動(ボグド・ハーン政権)とこれに付随するロシアの干渉の際には、ロシア側に譲歩の用意があった外蒙古への中国宗主権の承認(=主権からの後退)を最終的に受け入れており(キャフタ協定(中国語版))、体制転覆に伴う政治混乱の中で外交の基本姿勢が継承できなかった様子が窺える[21]。一方この交渉を注視していた日本では、「最モ同国ノ為形勢ノ便アル外蒙古ニ対シテスラ猶且支那ノ宗主権ヲ認メテ以テ領土侵略ノ譏ヲ避ケントスル」[22]という分析がなされており、大正の初年には宗主権という訳語が実務家レベルで浸透しつつあることが観察される[注釈 6]
意味の広がり

現代における日常的な使用においては、植民地に対してその植民地を所有する国[注釈 7]や、事実上の従属国に対して一定の強制力を有すると目される覇権国家[注釈 8]、衛星国家に対してそれらを指導する地位にある国家[注釈 9]、など、意味やニュアンスの異なる用法が混在している。また、現在先進国と呼ばれている国の多くは、19世紀から20世紀にかけてアジア・アフリカなどを植民地支配していた元宗主国が多い。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ Vassal stateの訳語としての「藩属」は、Wheaton, Elements of International Law([1836]1855) の漢訳書『萬國公報』(1864年) に登場するが、対語のsuzerainについては同書には定まった対訳がなく、またJ. C. Bluntschli, Le droit international codifie ([1868]1870) の漢訳書『公法會通』(1880年) ではsuzeraintyに「上國」の訳語があてられている(岡本隆司「宗主権と国際法と翻訳」pp.100-104.『宗主権の世界史:東西アジアの近代と翻訳概念』名古屋大学出版会 2014, pp.90-108.)。20世紀に入って、日本で1906年の有賀長雄「保護国論を著したる理由」において「宗主権」の語が用いられている(岡本「日清開戦前後の日本外交と清韓宗属関係」p.231. 前掲書pp.207-231.)。
^ 宗族は殷代には既に存在しており(馮爾康. [1996]2013=2017. 『中国の宗族と祖先祭祀』【原著『中国古代的宗族与祠堂』】小林義廣 訳. 風響社. p.34)、周では体制確立のために運用されている(同書p.38)。周代までの宗族は貴族宗族が主であり、平民宗族は発展していないか、あるいは存在していない(p.40)。戦国時代に破壊されたが、漢になると再建された(p.45)。
^晋書』巻三十四の「鉅平侯羊?明コ通賢國之宗主」など衆望を集める人物を指す用法に近いと考えられる。『広韻』は「宗」の字義の筆頭を「衆也」とする。
^ 属国の制は漢代に初めて置かれたが、これは郡国制の漢における「(郡に)属する国」という内国の特殊行政単位であり、外国を指すものではない。『魏略』西戎傳にも属国の語は見えるが、正史における使用はその後『遼史』まで下る。
^ 代には藩鎮が設置されたが、文献上で藩属の語が現れるのは概ね乾隆後期以降である。
^ しかし世論や陸軍は強硬論への傾斜を強めつつあり、この訓令を発した阿部守太郎外務政務局長が翌年暗殺される(阿部守太郎暗殺事件)など協調外交路線の退潮に転ずる時期でもあった。霍耀林,「 ⇒漢口・?州・南京事件についての一考察」『ICCS現代中国学ジャーナル』第10巻 第1号 2017 p.47-68, .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISSN 18826571, NAID 120006319768。
^ 古くは「本国にとって?主権を有しない完全な属領」〈広辞苑第六版〉であった植民地が、「19世紀末以降?保護国、保護地、租借地、特殊会社領?、委任統治領などの法的形態を問わず植民地と考えられるようになった」〈中村研一「植民地」『世界大百科事典』平凡社〉ためで、「植民地」の語の意味の広がりによるもの。用例としては、たとえば「ベナンのような旧植民地国の旧宗主国に対する文化財返還要求の背景には「文化財ナショナリズム」がある」〈大室一也「取り戻した文化財、国をまとめる象徴に 旧宗主国に返還を求める旧植民地の事情」朝日新聞GLOBE+ 2020年4月8日付 https://globe.asahi.com/article/13277888〉など。
^ 用例としては、「日本の国民は「宗主国であるアメリカがこれを望んでいる」と言われると、一発で腰砕けになる」〈内田樹『サル化する世界』文藝春秋、2020年〉など。
^ 用例としては、たとえば「社会主義の祖国であり“宗主国”であるソ連邦は常に優位でなければならなかった」〈中川一徳「【インタビュー】クリスティナ・ゴダ(映画監督) 若い監督が汲み取った「ハンガリー動乱」の苦い思い」『Foresight』2007年12月号 https://www.fsight.jp/articles/print/3844 〉など。「宗主」の持つ意味のひとつ「中国古代封建制の盟主」(『国語大辞典』小学館)から、「盟主」の意でカジュアルに転用されている。

出典^ ヨーロッパ封建制における封主(suzerain)と封臣(vassal)の関係については、「レーエン」「封臣」「封建領主」等を参照。
^ 岡本隆司「導論:世界史と宗主権」p.11.『宗主権の世界史:東西アジアの近代と翻訳概念』(名古屋大学出版会, 2014年)pp.1-19.
^ 黛秋津「オスマン帝国における附庸国と「宗主権」の出現:ワラキアとモルドヴァを例として」p.44. 岡本隆司(編)『宗主権の世界史:東西アジアの近代と翻訳概念』(名古屋大学出版会,2014年)p.22-48.
^ 豊田哲也「国際法における保護関係(protectorate)概念の形成と展開」p.36. 『ノモス』43号(2018年)、pp.17-38.
^ 松田幹夫「宗主国・従属国」『世界大百科事典』平凡社。
^ 豊田哲也「国際法における保護関係(protectorate)概念の形成と展開」p.18, p.36. 『ノモス』43号(2018年)、pp.17-38.
^ 佐分晴夫「従属国」『日本大百科全書』小学館。
^ 万国公法#華夷秩序
^ 「宗主:(2)宗廟的神主」〈重編国語辞典〉、「宗主:(3)宗廟の位牌」〈日本国語大辞典精選版〉。「宗とは、本來廟を意昧したものて、轉じて祖廟の祭祀を主宰する本家と、その統括のもとて祖廟に集まる同祖者(分家)の集團を意味する」〈山根三芳. 1970. 「張子禮説考」p.75. 日本中国学会報 Vol.22. pp.72-92.〉
^ 堀敏一「均田制の成立(下)」(『東洋史研究』24(2). pp.177-193. 1965.)p.179にて、『北史』巻三十三(李霊)の用例が紹介されている。
^ 「杜氏云東周雖微然猶為天下宗主」、毛奇齢『春秋毛氏傳』巻六。
^ 「是故……然歴數百年宗主天下」、『宋文選』巻四。


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