宏池会
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大平は総理総裁に就任すると椎名裁定以来の総幹分離の慣例を破って総裁派閥である斎藤邦吉を幹事長に起用し、大平―斎藤ラインで1979年衆院選を行い、自派閥衆議院議員を50名に増やした。
鈴木派・宮澤派時代鈴木善幸宮澤喜一

1980年6月12日、衆院選・参院選の最中に大平が急逝。同年7月15日、鈴木善幸が宏池会代表(のち会長)に就任。7月17日、鈴木は内閣総理大臣に就任[2]。鈴木は元来、大平を総裁とすべく尽力してきた裏方の調整役であり、派閥を率いて総裁を目指す人物とはみなされていなかったが、反主流派の造反に端を発する総選挙の中での大平急逝という特異な状況下、党内融和を求める空気の中で同じ宏池会の実力者であり、キングメーカーの田中角栄とも関係が良好な鈴木に白羽の矢が立つことになった。この時期の宏池会では、大平の後継を巡り宮澤喜一と田中六助の間に「一六戦争」と呼ばれる抗争が繰り広げられていたため、鈴木の代表就任は決着がつくまでの当面のつなぎという性格も強かった。宮澤は早くから将来を嘱望される存在であったものの、人望と政治的手腕に欠け、一方の田中(六)は鈴木善幸の擁立や新自由クラブとの連立工作などで存在感を増してゆく。背景には宮澤嫌いで知られる田中角栄と、宮澤を好んだ福田赳夫による「角福戦争」がある。

鈴木退陣後は中曽根康弘総裁の下で「半主流派」などと揶揄される。二階堂擁立構想では、鈴木ら派幹部が主導的役割を演じた。宮澤と田中六助の後継争いは、1985年1月31日に田中が死去したことで、宮澤の継承で落ち着いた。宮澤の会長就任時期は「1986年6月」と示す資料がある一方で[14]、宏池会の公式サイトは「1987年9月4日」と記述している[2]

1987年10月8日、自民党総裁選が告示され、宮澤、竹下登安倍晋太郎の3人が立候補するも、10月20日の「中曽根裁定」により竹下に敗れた。

1991年10月27日に行われた自民党総裁選で、宮澤は竹下派の後押しを受けて総裁に当選。11月5日、宮澤は内閣総理大臣に就任した。

その竹下派の分裂が引き金になり、自民党は1993年に野党に転落することになった。野党転落後は宮澤が会長に留任したまま、宏池会の河野洋平が総裁となり、1994年に自社さ連立を実現させ、与党に復帰する。しかし河野総裁の任期中から宮澤の後継争いも絡んで加藤紘一と河野との対立が深刻化し(「KK戦争」)、加藤が1995年の総裁選で橋本龍太郎を支持したこともあり、河野は総裁続投断念に追い込まれる。河野は総理に就任しない最初の総裁となった。
加藤派、加藤の乱加藤紘一

1998年12月22日、加藤紘一が第6代会長に就任[2]。同月、河野は派閥を離脱し、派内の反加藤議員を結集して1999年1月に大勇会を結成した。長らく結束を保ってきた宏池会にとって最初の分裂だったが、翌年にはさらなる激震に見舞われることになる。

2000年11月に野党から提出された森内閣不信任案に加藤は同調。しかし派閥全体を動かすことができずに尻すぼみに終わった(加藤の乱)。結果、加藤を支持するグループと、反加藤グループ(堀内派)に分裂し、両派が互いに「宏池会」と名乗る異常な事態となった(加藤グループは、2年後に加藤が秘書のスキャンダルで議員辞職に追い込まれて小里貞利が継承。その後小里が政界引退し、2005年9月26日の派閥総会で谷垣禎一が会長に就任)。

宏池会分裂時の各派閥についての詳細は、以下の項目も参照。

宏池会 (古賀派)

宏池会 (谷垣派)

小泉政権

5年半の長期政権となった小泉政権においては、谷垣派は谷垣自身がほぼ一貫して重要閣僚を担っていたため事実上の主流派として政権を支える一方、堀内派は政権に対する距離が定まらず、2003年の総裁選などでも派内対立が激化した。2005年のいわゆる郵政法案とその後の郵政解散を巡っては、堀内光雄会長が反対票を投じて離党に追い込まれ、古賀も棄権票を投じたため誓約書を書かされた上でようやく公認を得るなど苦汁を舐めさせられている。小泉の「脱派閥」方針で一貫して派閥の弱体化が進んだ時期だったが、相対的に小泉の出身派閥である清和会の存在感が増していくと、それに対する対抗の意味もあり、宏池会の再結集が語られるようになっていった。
宏池会結集構想

2006年に入ると、河野グループも含めた旧宮澤派の流れを汲む三派の再結集を目指す大宏池会構想が具体的に表面化した。谷垣と河野グループ(当時)所属の麻生太郎ポスト小泉に名乗りを上げているため、2006年9月の自民党総裁選が終了した10月頃の合同で三派幹部の認識は一致しており、「大宏池会」への流れは加速していると見られてきた。

同年10月5日、古賀誠が第8代会長に就任[2]

総裁候補を有しない丹羽・古賀派内部では若手議員を中心に安倍待望論が根強く、丹羽雄哉・古賀誠も事実上の安倍支持を表明、さらに丹羽・古賀派のベテランである柳澤伯夫が安倍陣営の選対本部長に就任(後に厚生労働大臣)。安倍が勝利した総裁選後の人事では丹羽・古賀派からは丹羽が総務会長に就任したのに加え、4人を閣僚に送り込み、河野グループ(2006年12月以降、麻生派)でも麻生外相が留任するなど主流派となったのと対照的に、谷垣派は完全に要職から外れた。さらに総裁選後は丹羽・古賀派の古賀系の議員による丹羽外しの動きが見られた。

2007年、安倍退陣後の総裁選においては総裁選の過程で早くから谷垣・古賀が派として福田康夫支持を打ち出し、対立候補の麻生を一転劣勢に追い込んだため「麻生包囲網」などと言われた。福田政権においては古賀・谷垣自ら三役入りする一方で、麻生は入閣を拒否し反主流派に回った。かつての盟友である麻生・古賀の関係が冷え込んだのもこの時期である。

このように三派の関係や各派内部においても溝が生じたため、総裁選を過ぎた後は、大宏池会としての合流は困難な情勢となった。
古賀派・谷垣派の再合流

他方、上述の総裁選をきっかけに谷垣・古賀両派の関係は緊密化し、2007年末になって麻生派抜きの「中宏池会」として古賀派と谷垣派が2008年5月にも再合流することで両派閥が合意。これに伴い「宏池会」の名称で2つの派閥が並立する状態は7年ぶりに収束することになった。

その後、再合流は通常国会前が望ましいとの観点から2008年5月13日に前倒しされ、古賀が派閥会長に、谷垣が代表世話人に、堀内光雄が名誉会長に、逢沢一郎が事務総長に、それぞれ就任した。

中宏池会の成立により宏池会(2008年10月15日現在[15]、61人)は、清和政策研究会(2008年6月20日現在[16]玉澤徳一郎含めて89名)、平成研究会(2008年2月13日現在[17]、69人)に次ぐ第3派閥となり、ハト派勢力として党内に影響を与えると見られた。詳細は「宏池政策研究会」を参照
歴代会長

代会長派閥呼称期間
1
池田勇人池田派1957年 - 1965年
2前尾繁三郎前尾派1965年 - 1971年
3大平正芳大平派1971年 - 1980年
4鈴木善幸鈴木派1980年 - 1986年
5宮澤喜一宮澤派1986年 - 1998年
6加藤紘一加藤派1998年 - 2001年
-分裂※1加藤派→小里派→谷垣派
堀内派→丹羽・古賀派→古賀派2001年
7堀内光雄堀内派2001年 - 2006年
8古賀誠※2古賀派2006年 - 2012年
9岸田文雄岸田派2012年 - 2023年
-空席※3岸田派2023年 - 2024年

※1 加藤の乱をきっかけに、加藤派と堀内派に分裂
※2 谷垣派が古賀派に合流
※3 岸田の派閥離脱に伴う。後任は置かない[18][19]
※4 太字は首相(総裁)経験者
※5 代数、期間は宏池会公式HPに拠る
かつて所属していた人物

宏池政策研究会成立以後のものは、宏池政策研究会を参照。

小金義照1962年、離脱して党風刷新懇話会を結成。

大橋武夫離脱後、周山クラブを経て八日会に参加。

野田卯一1966年、離脱。無派閥を経て八日会に参加。

小沢辰男1972年、離脱。

小坂善太郎1976年9月、離脱。

八田貞義第34回衆議院議員総選挙落選後、離脱。


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