小学6年生の頃に東京大空襲で敷地に焼夷弾240発が落とされて自宅が全焼し[6]、跡地はドサクサに紛れた何者かに居座られ、奪われてしまう。遠い親戚を頼り宮城県斎川村(現在の白石市)に疎開[4][6]。当地に父が家を建て[4]、高校卒業まで当地で育つ。
勉強もスポーツもよく出来、高校ではバスケットボール部に所属。映画もよく見て、プロ野球選手か、実業団で野球をやるか俳優をやるか考え、1952年高校卒業後、早稲田で演劇をやろうと試験を受けたが落ち[4]、日本大学藝術学部に進む[4]。同期にケーシー高峰、砂塚秀夫、赤江瀑、嵐徳三郎ら[4]。
大学へ入学するが、2年のときに日活に合格したために中退[4]。
1954年、日活ニューフェイス(第1期生)として入社[4]。『警察日記』(1955年)『ヒッチコック・マガジン』1961年5月号より
1955年、『警察日記』での若い巡査役で銀幕デビュー。この頃は線の細い美青年だったが、1956年にトレードマークとなる豊頬手術を受ける。本人は「それはそれでいいんですが、一方ではもし整形しなかったら、もっとすごい俳優になれていたかもしれないっていう意識も常にあったんですよ」と述懐するが、これを機に「アクの強い役=悪役」への転向を見事に果たした。
1962年に一才歳上の女性[注釈 3]と結婚、3人の子供がいて、長男が宍戸開である。
2001年、豊頬の際に注入された異物(オルガノーゲン)を摘出手術で取り除いた[注釈 4]。摘出手術に踏み切った理由を「理由の一つに、僕は70歳を前にして普通のジジイの顔になりたくてやっただけ」と語っていた[8]。
映画や創生期のテレビドラマ『事件記者[注釈 5]』などに出演。タフでハードボイルドな役柄で小林旭らとともに名を知られ、日活アクション映画の需要もあって、「エースのジョー」と呼ばれて親しまれた。エースのジョーのニックネームは日活の宣伝部員によって名付けられ、これは宍戸が「ハリウッドの3流ギャング映画的な『殺し屋ジョー』でやりたい」というリクエストに応えたものだった[9][注釈 6]。宍戸が考案した「チッチッチッ」のジェスチャー[10](他人の発言や行動をたしなめる仕草)
映画の衰退と共にテレビへと活動の場を移し、テレビドラマの他に『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』に出演したり息子と『くいしん坊!万才』のレポーターを務めた。
2006年、息苦しさを感じ、心臓血管研究所付属病院での検査の結果、虚血性心不全と診断されて即入院。冠状動脈カテーテル・バルーン手術を受けた。
2013年2月4日、1966年に建築した自宅が全焼[11][12]、妻の死去後は独り暮らしで外出時の出火だった[13]。直後のホテル住まいを経て、翌月からは賃貸マンションで暮らした。消防署の調べでは古い電熱器のコードが原因だと判明。この火事で思い出の品々や過去の衣装、日用の衣類までほぼすべて失い[14]、本人は「しょうがない、今後の衣服はユニクロで我慢するか」と語った[15]。
2020年1月18日、虚血性心疾患のため東京都内の自宅で死去[1]。86歳没[2][3]。1月21日未明に東京都世田谷区にある自宅で倒れている宍戸が発見され、警察や救急隊により死亡が確認された。
2021年、第44回日本アカデミー賞会長特別賞を受賞。
人物『ヒッチコック・マガジン』1961年5月増刊号より
洋画吹替の仕事もこなしており、デニス・ウィーバーやバート・ランカスターを担当している。小原乃梨子によると缶ビールを飲みながら収録を行うこともあったが、誰一人として「エースのジョー」に物申すスタッフはいなかったという[16]。
英国のファッションブランド「トムモリス」のファンで愛用者。
愛称「エースのジョー」は自身がトランプを趣味としていたことから[17]。
豪快な性格でも知られた。飼い犬の名前も「俺は強い名前が好きなんだ」と豪語していた通り、雌のパグに「ムサシマルコ」、雌のシェパード「サダムフセインコ」と命名した[17]。
自宅全焼については当初、その2年前に自身の飼っていた番犬が既に死んでいたことから放火である事を主張した。宍戸は取材に対して「(犯人を)捕まえて犬に食わしてやる!」と怒りを露わにしていた[18]。
整形による役作りだけではなく身体能力にも定評があり、日活でも小林旭とともに一、二を争うアクションの腕前の持ち主であった。野球選手を演じた映画『川上哲治物語 背番号16』で、「ジャイアンツの二軍でなら通用する」と言われたほど若い頃の宍戸の身体能力は抜群だった[19]。