達成日投手所属スコア対戦相手中断回備考 アメリカの学生野球では次のような記録が残されている。 日本プロ野球 (NPB) では、これまで16度記録されている[25]。参考記録としてコールドゲームによるものが1度記録されている[26]。上述のMLBにおける定義と異なりNPBでは継投での完全試合達成は記録されない(参考記録となる)。 なお、2022年時点で延長で完全試合を達成したものは一人もいない[27]。 チーム名・球場名は達成当時のもの。 達成日投手所属スコア対戦相手球場備考 投球数は96球。マダックス(100球未満完封)。
1907年08月11日 エド・カルガー(英語版)セントルイス・カージナルス4-0ボストン・ドーブス(英語版)7ダブルヘッダー第2戦が7回で終了した事による。
当時、試合会場のロビソン・フィールドに照明施設が無かったため、
第2戦は7回で終了する事が事前に両チームにより申し合わせられていた。
なお、カルガーはダブルヘッダー第1戦にも先発し、12-0で完投勝利[13]。
1907年10月05日 ルーベ・ビッカース(英語版)フィラデルフィア・アスレチックス(英語版)4-0ワシントン・セネタース(英語版)5ダブルヘッダー第2戦が日没により終了した事による。
なお、ビッカースはダブルヘッダー第1戦にも4番手で継投、
延長15回のうち12回を投げ切って4-2で勝ち投手となる[14]。
1967年08月06日 ディーン・チャンスミネソタ・ツインズ2-0ボストン・レッドソックス5レインアウトによる試合終了。
この年のチャンスは8月25日のインディアンス戦でもノーヒッターを記録、
レッドソックス監督のディック・ウィリアムズをして、「雨天終了でなければ、
チャンスは完全試合を達成していただろう」と言わしめた[15]。
1984年04月21日 デビッド・パーマー(英語版)モントリオール・エクスポズ4-0セントルイス・カージナルス5ダブルヘッダー第2戦のレインアウトによる試合終了。
パーマーは肘の故障により82年以降勝ち星から遠ざかっており、
これが2年ぶりの勝利であった[16]。
学生野球での事例
2006年5月19日 - ハイランド・パーク高等学校
2016年5月12日 - セント・エドワード高等学校(英語版)対ジョン・マーシャル高等学校(英語版)戦 - セント・エドワード高校のジャレット・エドワーズがジョン・マーシャル高校の先頭打者から15人を連続三振に討ち取り、5回終了時点で10-0であった為、マーシー・ルールの適用で5回コールドとなった[18]。マーシー・ルールの下での記録の為公式には参考記録となるが、オハイオ州はエドワーズの事績を公式記録として認定した[19]。
2017年4月11日 - チャタヌーガ・クリスチャン・スクール(英語版)対ノートルダム高等学校(英語版)戦 - チャタヌーガ・クリスチャン校のマシュー・マーサーにより達成。10-0でマーシー・ルールの適用で5回コールドとなる。なお、マーサーは同年4月4日のブレッドソー郡立高校戦でも14-0のスコアで5回コールドでの完全試合を達成しており、2試合連続でマーシー・ルール下の完全試合を達成するという偉業を成し遂げた[20]。
1957年8月23日 - 1957年のリトルリーグ・ワールドシリーズ決勝戦(英語版) ヌエボ・レオン州モンテレイ(メキシコ)対カリフォルニア州ラ・メサ戦 - モンテレイの両投げ投手であるエンジェル・マシアス[21]が、ラ・メサの全18人の打者の内11人を三振に討ち取り達成[22]。リトルリーグ・ワールドシリーズで唯一の完全試合となっている[23][22]。モンテレイの勝利はリトルリーグ・ワールドシリーズで米国外のチームが優勝した初の事例であり、脚本家のW・ウィリアム・ウィノカーは「この事績の衝撃は、1980年レークプラシッドオリンピックのアイスホッケー競技にて米国チームがソ連チームを打ち破った事績(氷上の奇跡)を上回っていた」として、2008年の映画『ザ・パーフェクトゲーム(英語版)』の脚本を執筆した[23]。マシアスはその後野手に転向し、1962年から1974年に掛けてカリフォルニアリーグやリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル等でプロ選手として活動[21]。1969年にはレイノサ・ブロンコスの優勝に貢献[24]し、引退後はメキシコのアマチュア野球で指導者として活動した[22]。
日本野球
プロ野球
1950年06月28日藤本英雄巨人4-0西日本青森市営野球場NPB史上最年長記録(32歳1ヶ月)
1955年06月19日武智文雄近鉄1-0大映大阪球場同年8月30日の大映戦でも9回1死までパーフェクトに抑えている。
1956年09月19日宮地惟友国鉄6-0広島石川県営兼六園野球場最小投球数(79球)
1957年08月21日金田正一国鉄1-0中日中日球場抗議と観客乱入で9回1死から43分間中断、 NPBでの達成者では唯一の左腕投手
1958年07月19日西村貞朗西鉄1-0東映駒澤野球場
1960年08月11日島田源太郎大洋1-0大阪川崎球場セ・リーグ史上最年少記録(20歳11ヶ月)
1961年06月20日森滝義巳国鉄1-0中日後楽園球場
1966年05月01日佐々木吉郎大洋1-0広島広島市民球場元々はアテ馬で1回終了時点で交代の予定だった
1966年05月12日田中勉西鉄2-0南海大阪球場1シーズン2人目の達成を果たした唯一の例
1968年09月14日外木場義郎広島2-0大洋広島市民球場セ・リーグタイ記録となる1試合16奪三振も記録
1970年10月06日佐々木宏一郎近鉄3-0南海大阪球場大阪球場でのプロ野球の完全試合は3度目(最多)
1971年08月21日高橋善正東映4-0西鉄後楽園球場
1973年10月10日八木沢荘六ロッテ1-0太平洋宮城球場
カウントが「3ボール」までいかなかった唯一のケース
プロ初完封が完全試合(史上初)