宋_(南朝)
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孝武帝も自身の兄弟や一族を次々と殺戮した[16]。また中央集権を図ったが失敗している[17]。孝武帝が464年に崩御すると、長男の劉子業が跡を継いだが、性格が凶暴・残忍で戴法興柳元景顔師伯ら重臣を殺したため、465年に寿寂之・姜産之により殺害された。

新しい皇帝には文帝の十一男の明帝が擁立された。だがこの明帝も残忍で孝武帝の子を16人も殺害した[16]。またこの明帝の時代には北魏からの侵略が激しくなり、山東半島から淮北までの領域を完全に奪われた[18]。明帝は寺院の建立や無謀な遠征を連年続けて濫費を繰り返し、宋の財政は悪化した。472年に明帝が崩御すると、長男の劉cが跡を継いだが、この時にも孝武帝の遺児12人が殺戮される悲劇が繰り返されている[18][19]。このように歴代が内紛を繰り返した結果、宋は衰退した。

このような中、明帝時代に北魏との戦線で実力を築いた軍閥の蕭道成は、驍騎将軍・西陽県侯・南?州刺史・右衛将軍・衛尉と昇進を重ねて宋の実力者となった[18]。そして宋の末年に発生した皇族の江州刺史で桂陽王劉休範や荊州刺史沈攸之らの反乱を平定した[18][20]。このように蕭道成が実力を蓄える一方で、劉cは殺戮を好み暴政を繰り広げ、遂には蕭道成の殺害を計画したために477年に殺害された[20]

新しい皇帝には弟の順帝が擁立されたが、幼少の事もあり実権は蕭道成が握った。479年、順帝は蕭道成に禅譲し、蕭道成は南朝斉を開き、ここに宋は滅亡した。なお、同族相食む中で滅亡した宋であるが、順帝は禅譲後に殺される直前、「二度と王家に生まれたくない」と述べたとまで伝わる[16][20]
国家体制
外交

対外的には、北涼吐谷渾北燕高句麗冊封下に置き、北方の柔然とも結んで、華北で有力だった北魏に対抗した(ただし、吐谷渾と高句麗は北魏からも冊封を受けた)。倭の五王による南朝への入貢の大半は宋の時代におけるものである。また、北燕や後仇池など華北の小国を冊封下に置き、それぞれ爵位を与えて北魏と対抗させた。
軍隊

宋は東晋を引き継いでいたため、軍事体制も建康東方の京口と対岸の広陵を基盤とする北府軍団と、長江中流の荊州を基盤とする西府集団という2大軍事勢力に分かれていたが、劉裕は自らが北府軍団の長として実力をつけた事を逆に恐れており、死の直前に北府長官には皇族か近親者を充て、西府長官には皇子を充てる事を命じ、この慣例は宋が滅ぶまで厳重に守られた[8]。また劉裕は東晋が貴族に軍権を与えて権力をつけていた事を逆に危ぶみ、貴族から軍権を奪った[8]
貴族

宋は東晋から禅譲(簒奪)したために貴族から正統性を疑念されており、文帝時代には皇帝がお気に入りの書記官を貴族にしようとして貴族の王球に反対されたという逸話も伝わるほどである[9]。東晋以降の貴族は皇帝権力の介入さえ拒否できる権力を持ち、軍権は奪っていたとはいえ政治においては貴族の権限は依然大きく、元嘉の治においても皇帝と貴族が相互補完的に支え合って成立していたといえる[9]
皇族

宋の皇族は互いに殺し合い、そのため国勢を大きく衰退させたが、これは皇族に権勢と軍事力が偏っていた上に、始祖の劉裕が寒門出身の軍人で社会の底辺から成り上がった人物だったため、信ずるに足りるは自分の実力だけと他人を猜疑し、宋の皇室における宗族教育の欠如が原因であるとされている[21]。また南朝では強固な身分制度が存在していたが、下克上の風潮は常にあったとされる[21]
社会・経済

劉裕は宋を成立させる過程に当たって、かつての桓温と同じように東晋時代に大規模な土断を行って戸籍の把握に務めている[22]

宋時代から南朝では現物交換経済から貨幣経済への転換・発展が急速に進んでいた[23]。このため商人は暴利をむさぼり、官吏は汚職を行い、国勢の衰退の一因となった[23]。また当時の基軸貨幣である銅銭の材料である銅の絶対的不足で経済の発展が阻害され、窮余の一策として宋は民間での貨幣鋳造を許したが、逆に不法の介入を招いて庶民の生活に甚大な被害を与えた[24]。また宋は徴税においては銅銭での納入、しかも不純物が入っていない銅銭を求めたが、これは過酷な増税であり、庶民は戸籍の書き換えで徴税を逃れたり生活窮乏のために反政府活動をしたりして治安の悪化を招いた[25]

宋は孝武帝の時期に大規模な徴税改革が行われた。当時の宋は北魏との戦争で荒廃していたため、中央から台使という使者を地方に派遣して地方官に徴税の督促を行わせて徴税強化を行った[18]。これは中央の財政を安定させるためだったが、台使が権勢をかさに着て不当な取立てを行い、民心を宋から離反させる一因を成した[18]
倭の五王の遣使

5世紀に倭国(日本列島)の王のうち5人が相次いで南朝に使者を派遣して朝貢した。この5人の王を倭の五王という。倭の五王の遣使は413年から477年までに少なくとも9回が確認されるが、このうち413年の倭王讃による遣使は東晋に対してであるが、421年から477年までの倭王讃・倭王珍・倭王済・倭王興・倭王武の遣使はいずれも宋に対するものである。
宋の皇帝の一覧

廟号諡号姓名在位年号備考
1高祖武帝劉裕420年 - 422年永初 420年 - 422年
2(少帝)劉義符422年 - 424年景平 423年 - 424年武帝の子
3太祖文帝劉義隆424年 - 453年元嘉 424年 - 453年武帝の子
(元凶劭)劉劭453年太初 453年文帝の子
4世祖孝武帝劉駿453年 - 464年孝建 454年 - 456年
大明 457年 - 464年文帝の子
5(前廃帝)劉子業464年 - 465年永光 465年
景和 465年孝武帝の子
6太宗明帝劉ケ465年 - 472年泰始 465年 - 471年
泰豫 472年文帝の子
(晋安王)劉子466年義嘉 466年孝武帝の子
7(後廃帝)劉c472年 - 476年元徽 473年 - 477年明帝の子
8順帝劉準476年 - 479年昇明 477年 - 479年明帝の子

系図

    1武帝
劉裕

            
     
    2少帝
劉義符 3文帝
劉義隆

            
           
(僭)元凶劭
劉劭 4孝武帝
劉駿 6明帝
劉ケ


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