安重根
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 旧暦では1879年7月16日。
^ 伊藤博文は、明治維新元勲の1人で、日本の初代内閣総理大臣、同じく初代の枢密院議長、初代の韓国統監であるが、韓国統監はすでに退任しており、当時の地位は元老および3代目(2回目)の枢密院議長で、ロシア外相との外務折衝に向かった先で暗殺された[2]
^ 上から重根・定根・恭根。女子名は不詳。
^ 兄弟は六男三女。上から泰鎮・泰鉉・泰勲・泰健・泰敏・泰純。三人の姉妹は女子名は不詳。
^ 朝鮮を清国の属国から脱しさせて、日本の力で近代化しようとした派閥。現在の韓国では親日派と見なされているが、安泰勲もこれに属していた。
^ 民包軍は守城軍とも言うが、朝鮮の官側に立った富裕層が主導とする民間の部隊で、乱の鎮圧にあたった官兵や日本兵を助けて、主に農民からなる民族主義的な東学軍の勢力を孤立させた。
^ 李氏朝鮮末期の政治家。当時は度支部大臣だった。
^ Nicolas Joseph Marie Wilhelm。
^ 自伝には具体的には書かれていないが“日本人の妨害”により失敗したとされ、日本政府の調査によれば、安秉雲と仲たがいしてこれ以上の出資を拒まれたため、安は秉雲を殴打し、さらに抜刀して脅迫で損害金を奪ったとされている。( ⇒伊藤公遭難事件調査報告書
^ 自伝には、少なくともこの頃に国内で義兵闘争に加わっていたとは一言も書かれてない。
^ 崔才亨の女婿という。
^ 自伝では金起龍。日本政府の調査書によると字は燦淵。同調査および安の供述によると泰勳とも称したとされる。元は平壤警察総巡 (警部) から平安北道警務官 (警視)となった人物。
^ 本多熊太郎のいう金某と同一人物らしい。自伝では「金斗星」の漢字で書かれている。
^ 自伝にははっきりとは書いてないが、これが後に安が主張する「大韓義軍」である。自伝を読む限りにおいても、咸鏡北道からの退却ですでに解散状態であり、事件時にはすでに軍隊どころか武装勢力としての体裁もなしていない。
^ 日本の新聞では14名。
^ 安應七、金基龍、姜起順、鄭元柱、朴鳳錫、柳致弘、曹順応、黄吉秉、白南奎、金伯春、金天化、姜計讚。
^ 李珍玉とハン・ソンキン(漢字不明)という人物と言う。ただし安は後述の尋問において、李珍玉は日本語通訳だが無関係で、ハン・ソンキンなる人物は名前も聞いたことがないと答えている。
^ 崔鳳俊が創刊した新聞。明治40年に創刊したが直後に廃刊となったために、義兄弟の崔才亨が大東共報と名前を変えて創刊した。
^ 参考文献に記した自伝と同じもの。日本では「獄中記」、韓国では「安応七歴史」と呼ばれている。
^ 処刑日前の2、3日は何も書かなかったと伝えられる。
^ 父と面識がなかった俊生ではなく、長男の芬道のことで、彼は数年後に12歳でロシアで没している。
^ 山本権兵衛が反対したという時期や経緯は詳しく書かれていない。
^ a b 義兵運動(当時の日本政府の表現では排日運動)の代表的な活動家で、最年長であったためにロシア当局が在留韓国人の総取締とし、排日思想を論調とする大東共報の創刊者だったことから、日本政府は運動の指導者と見なしていたが、実態は李東輝が指導者と言い、その片腕だった。シベリア出兵をしていた日本軍が、1920年4月4日にウラジオストクの新韓村(英語版)を襲撃した際、ニコリスクで多数の同志らと共に射殺された。(四月惨変)
^ 独立運動家申采浩の言葉と信じられてきたが誤りである。チャーチルジョージ・サンタヤーナ、ムハンマド・フサイン・ハイカルなど諸説ある。
^ 『父のいた日々』などの著作がある。
^ ハーグ条約では単に非戦闘員だが、後のジュネーヴ条約にはさらに厳しい規定と禁止事項がある。
^ 安が拳銃を隠し持って群衆にまぎれて接近したのならそれも違反で、戦闘員と認めるのは難しい。
^ 当時は大韓帝国の少尉。キリスト教徒で、箕明学校の教師でもあった。後に大韓民国臨時政府の軍務次長。
^ ハーグ密使事件の3人の密使の1人。
^ 夏目漱石も元首相の暗殺には驚愕しつつも、安は独立活動家であるとその動機を判断していた。ただし被害者の1人である中村是公は漱石の親友でもあり、漱石は植民地民に対して同情は示さずに、事件も批判的にとらえていた。(「韓満所感」、「満韓ところどころ」も参照)
^ 日本が1人の朝鮮人を殺せば10人の義兵が決起する、10人の朝鮮人を殺せば100人の義兵が決起するという意味で、自分を含めた自己犠牲によってさらに同胞が決起するだろうという趣旨の発言。
^ 1人が自らの命を捨てて1人の要人を暗殺すれば、万民が救われる。一つの殺人で、一切を救わんとする一殺多生という教え。
^ 大韓帝国総理李完用の暗殺未遂犯。
^ 韓国併合の方針は、すでに暗殺前に日本で閣議決定していた。(適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事 1909年7月6日)。伊藤には朝鮮は保護国に留めるべきという日露戦争以前からの腹案があったが、決定に至る過程で主張を取り下げており、閣議決定にも反対しなかった。このため併合と伊藤の死には直接の因果関係はないが、一進会が安の裁判中の1909年12月6日に日韓合邦運動を起しており、もともと期日も未定だった併合をより早く実現するために事件を政治的に利用する動きがあった[98]
^ この地域は現在も少数民族として朝鮮族が居住しているほか、韓国人も外国人として在留している[114]
^ 伊藤博文の同郷の河野道友という人物の娘で、事件直前に伊藤からもらった、李皇太子と伊藤が写った写真を持参。
^ 「内鮮融和運動」は宇垣一成総督が推進した朝鮮人の皇民化計画で、後を継いだ南総督はそれをさらに推し進める立場だった。
^ 金九の長男の金仁は、安重根の姪の安美生と結婚しており、姻戚関係にあった。このために安俊生が内鮮一体に賛同したことは、彼とっては(金九の家長的権威の無視であって面子を潰されたことになるので)家族的な大問題であり、許されざる行為であった。
^ 満州事変時に陸軍大臣。後に関東軍司令官。戦後、A級戦犯として終身刑になった。内鮮一体、創氏改名は彼の代で提唱されたもの。個人的には穏和で誰にでも人当たりの良い人で、安俊生らとの面会でも気さくに振る舞ったことが記されている。

出典^ “(69)?? ??” (朝鮮語). ???? (1983年6月18日). 2022年8月6日閲覧。
^ “Ito, Hirobumi”. Portrait of Modern japanese Historical Figures. 2008年1月29日閲覧。
^ 日本人名大辞典+Plus, 精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,日本大百科全書(ニッポニカ),改訂新版 世界大百科事典,百科事典マイペディア,山川 世界史小辞典 改訂新版,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,山川 日本史小辞典 改訂新版,デジタル版. “安重根(あんじゅうこん)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年1月20日閲覧。
^ Shin, Gi-Wook (2006). Ethnic Nationalism in Korea. Stanford University Press. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 0-8047-5408-X [要ページ番号]

次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:161 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef