安重根
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安賢生安重根の長女・安賢生(日本名:大川安子)は、事件があったときは8歳だったが、すぐに出国した母と弟とは分かれて、父が懇意にしていたフランス人神父の保護を受けながら明洞聖堂の修女院で暮らし、5年後に帝政ロシア末期のウラジオストクに亡命して家族と合流。革命とシベリア出兵の混乱を避けて、中国・上海フランス租界に移り、フランス文学と美術を勉強した。25歳で黄一清(日本名:大川清一)と結婚。賢生は満鮮視察団には同行しなかったが、夫は同租界の電車会社の車掌監督で、その夫が再び訪朝した際には同行して、1941年3月に博文寺を参拝して、弟と同様に伊藤博文を慰霊した[120]。この模様も京城日報によって報道されているが、彼女に関しては名指しでの殺害指令は出されておらず、参拝した時期は日本軍による上海租界の占領の前であるが、弟と同じ行為をしたにも関わらず現在の韓国でも親日派の扱いを免れている。帰国後はソウル在住。朝鮮戦争時に大邱に移り、大邱曉星女子大(大邱カトリック大学)で教職についた[124]。1960年にソウルで死去。墓は江北区にあり、最近整備された[125]
安文生安重根の長男。字を芬道(ブンド)。没年は1911年と1917年の2説ある。韓国では「1917年に”日帝”の密偵あるいは巡査によって毒殺された」といわれている。
記念碑
日本

元看守の千葉十七(及びその妻)の墓がある
宮城県栗原市(旧若柳町)の大林寺には、1981年に安重根の顕彰碑が建立された。これは千葉十七が安から贈られた「為国献身軍人本分」と書かれた墨書を、遺族が安重根の生誕100周年(1979年)に際して韓国に贈ったことへの返礼として、遺墨を刻んだ碑が立てられたものである。碑の裏には山本壮一郎県知事(当時)の「日韓両国永遠の友好を祈念」の文字が刻まれ、1992年9月6日からは日韓合同で毎年、安重根・千葉十七夫妻の合同供養が執り行われている[126]

2011年、佐賀県佐賀市の無量寺に「安重根東洋平和祈願碑」の碑が建てられた[127]

韓国

ソウルの南山公園にある安重根義士記念館内の像ソウル南山公園に安重根義士記念館があり、その前にも安重根の銅像が設置されている。この記念館は2010年に、安の死後100年を記念して新館が建設された[128]

中国

2006年、ハルピン内に銅像は一度建てられ、中国当局により撤去させられたことは前述
[114] の通りであるが、銅像が禁止であるため、今度は石碑をハルピン駅内に造るとされていたが、結局は日韓・日中関係の悪化によって、中国政府は記念碑の設置を格上げして「安重根義士記念館」として2014年1月19日に完成させ、翌日から一般公開した[129]。前回揉めた銅像も設置されている。韓国は「歓迎し、高く評価する」[129] と発表したが、日本は上記のように抗議した。

ロシア

2002年、ソウル保健神学研究院と提携したことがきっかけで、ウラジオストク国立医科大学の構内に安重根をたたえる記念碑を建立したが、翌年、学内のリニューアル工事のために撤去された
[130]

年表逮捕後の写真(1909年)

1879年9月2日、黄海道道都海州府首陽山(北朝鮮)で両班の家に生誕

1884年甲申政変開化派の進士安泰勲(父親)追放

1894年、16歳で結婚
 甲午農民戦争

1902年、長女・安賢生生誕

1904年、安泰勲死去

1905年、長男・安文生(-1917)生誕

1906年、私財を投じて2つの学校(三興学校と敦義学校)を設立
 石炭商の事業に失敗 → ウラジオストクへ

1907年、次男・安俊生生誕

1908年、金斗星(金都世)の配下で義兵運動 → 敗退

1909年正月、断指同盟を結成(指詰め
10月、大東共報社で活動資金を無心

1909年10月26日、ハルビン駅で伊藤博文を射殺
11月13日、関東都督府地方法院で裁判(予審)開始

1910年2月14日、裁判結審・死刑判決
3月15日、獄中記を脱稿

1910年3月26日、絞首刑を執行

関連作品
小説


卜鉅一『京城・昭和六十二年 碑銘を求めて』1987年

韓碩青 著 金容権訳『安重根』1997年

第一部:生成篇 ISBN 4-87893-289-9

第二部:超人篇 ISBN 4-87893-290-2


キム・ジョンヒョン『安重根、安倍を撃つ』2014年

映画


『安重根 伊藤博文を撃つ』(DVD邦題。ビデオ邦題は『安重根と伊藤博文』、1979年、北朝鮮、演:リ・インムン)

ロスト・メモリーズ』(2002年、韓国、演:オ・セホン)

『多默安重根』(2004年、韓国、演:ユ・オソン)

関連書籍(日本語文献)

『朝鮮統治史料 第5巻 (民族運動)』韓国史料研究所 1970年

中野泰雄
『安重根 日韓関係の原像』亜紀書房 1984年

谷譲次『安重根 十四の場面』五望書房 1989年

佐木隆三『伊藤博文と安重根』文芸春秋 1992年 のち文庫

斎藤充功『伊藤博文を撃った男 革命義士安重根の原像』時事通信社 1994年 のち中公文庫

斎藤泰彦『わが心の安重根 千葉十七・合掌の生涯』五月書房 1994年

鹿嶋海馬『伊藤博文はなぜ殺されたか 暗殺者・安重根から日本へ』三一新書 1995年

中野泰雄『安重根と伊藤博文』恒文社 1996年

津留今朝寿『天主教徒「安重根」 私の中の安重根・日本と韓国』自由国民社 1996年

市川正明『安重根と朝鮮独立運動の源流』原書房 2005年 明治百年史叢書

廣瀬爲人、斎藤泰彦『わが心の安重根遺された硯』創樹社美術出版 2008年

伊藤之雄、李盛煥編著『伊藤博文と韓国統治 初代韓国統監をめぐる百年目の検証』ミネルヴァ書房 2009年 シリーズ・人と文化の探究

安重根『安重根 仁の人、義の人、信の人』うのていお訳 愛知宗教者九条の会 2011年

『安重根事件公判速記録 復刻版』満洲日々新聞社編 龍溪書舎 2011年 韓国併合史研究資料

『図録・評伝安重根』統一日報社編 姜昌萬監修 日本評論社 2011年

早坂隆『愛国者がテロリストになった日 安重根の真実』PHP研究所 2015年

勝村誠(立命館大学政策科学部教授)『安重根の獄中口述記録「聴取書」を中心に』

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 死刑執行命令記録原本では年齢は33歳となっている。
^ 字は芬道(ブンド)。
^ a b 当時の朝鮮では女子名を記録する習慣がなかったので、一般には姓のみを記した。
^ マリアは洗礼名と思われる。
^ 旧暦では1879年7月16日。
^ このため、彼が単純な韓国独立運動家であるならば、韓国併合反対派の伊藤博文を殺す理由がなく今もなお、彼の真意は不明である。
^ 上から重根・定根・恭根。女子名は不詳。
^ 兄弟は六男三女。上から泰鎮・泰鉉・泰勲・泰健・泰敏・泰純。三人の姉妹は女子名は不詳。
^ 朝鮮を清国の属国から脱しさせて、日本の力で近代化しようとした派閥。現在の韓国では親日派と見なされているが、安泰勲もこれに属していた。
^ 民包軍は守城軍とも言うが、朝鮮の官側に立った富裕層が主導とする民間の部隊で、乱の鎮圧にあたった官兵や日本兵を助けて、主に農民からなる民族主義的な東学軍の勢力を孤立させた。
^ 李氏朝鮮末期の政治家。当時は度支部大臣だった。
^ Nicolas Joseph Marie Wilhelm。
^ 自伝には具体的には書かれていないが“日本人の妨害”により失敗したとされ、日本政府の調査によれば、安秉雲と仲たがいしてこれ以上の出資を拒まれたため、安は秉雲を殴打し、さらに抜刀して脅迫で損害金を奪ったとされている。( ⇒伊藤公遭難事件調査報告書
^ 自伝には、少なくともこの頃に国内で義兵闘争に加わっていたとは一言も書かれてない。
^ 崔才亨の女婿という。
^ 自伝では金起龍。日本政府の調査書によると字は燦淵。同調査および安の供述によると泰勳とも称したとされる。元は平壤警察総巡 (警部) から平安北道警務官 (警視)となった人物。
^ 本多熊太郎のいう金某と同一人物らしい。
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