安重根
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この頃、2つの刑事事件に関与した。1件は韓国人の官吏と軍人に搾取されていた友人を義侠心から助けようとして失敗したもので、もう1件では、病気の父泰勲を診察した清国人医師が、反清勢力である開化派であったとして飲んだ勢いで父に殴る蹴るの乱暴をしたというので、應七は怒って殴り込みをかけて相手を殴打した上に短銃を発砲して逃走したというものだった。この清国人は官憲に訴えて應七を逮捕させようとした。当時の韓国は外国に領事裁判権を認めており、清国領事は京城の外務部にこの事件を主管することを訴えていたので、應七は外務・法務大臣の李夏栄に嘆願してこの件が鎮南浦裁判所に回されるように手を回してもらった。韓国の裁判所では自国民に有利な判決がでるため、清国人は仲裁に応じて和解して、結局は事なきを得た。[要出典]

1904年、日露が朝鮮半島などの植民地領有を巡って争った日露戦争が勃発したが、應七は日露の何れが勝っても韓国はその勝者の属国であると行く末を悲観。他方で應七は宣戦布告の文面にある「東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にする」ためとする建前を信じていて、その大義を日本が守らないのは全て政治家が悪いのであり、伊藤博文の策略のせいであると考えていた、と自伝にある。しかし伊藤の勢力が今は強くこれに抵抗しても徒死するだけで無益だと、應七と泰勲は話し合い、清国の山東半島上海には韓国人が多数居留していると聞いていたので、安一族も外国に亡命して安全を図るべきだと考えて、應七がまず下見に行くことになった。ところが、上海で旧知の郭神父が帰国するのに遭遇し、フランス人の彼により朝鮮民族(韓民族)の危機を諭され、外国に逃げたり、外国の力を借りて民族独立を計ろうというのは間違いであると指摘されて、大韓帝国の独立について二千万の同胞(朝鮮民族)が団結するべきという意見を持つようになったと言う。1905年、泰勲らは娘の嫁ぎ先や應七の妻の実家があった平安南道鎮南浦に引っ越していたが、12月、應七が帰国した頃には父はもう亡くなっていた。應七は父が死んだとの凶報を聞いて数回気絶したと自伝に書いている。父を青溪洞に葬った後、應七は大韓独立の日まで日常の飲酒を辞め、断酒をすることを決心した。[要出典]

1906年、私財を投じて三興学校と敦義学校という2つの学校を設立した。1907年、父の知人金進士から白頭山よりも北方にある間島海参?(ウラジオストク)には韓人百数万人が居留して物産豊富であると教えられて、應七はロシアの地で事業を起こすことを考えるようになったが、先に資金を調達すべく平壌で友人の安秉雲らと石炭商を営み始めた。しかしこれに失敗[注釈 13] し、数千という多額の金を失った。應七はこの頃、国債報償運動にも参加して大韓帝国が負った日本からの強制円借款の返済を目指していたが、探偵にきた日本人巡査と議論して殴られ、喧嘩した話が自伝にある。[要出典]

この年の7月、伊藤博文が訪韓して第三次日韓協約が締結され、第二次日韓協約(1905年)にも内心では反感を持っていた高宗の指示により第2回万国平和会議へ派遣されていた密使が抗議活動をして、いわゆるハーグ密使事件が露見し、高宗は強制退位となり、皇太子に譲位するという一連の展開があった。軍隊解散とそれに伴う義兵闘争の高まりの中で国内が不穏となると[注釈 14]、[要出典]應七は急に家族を置いて、安多黙と名乗って友人李照夏と共に間島へ渡った[15]。なお「多黙(??)」は洗礼名トマの当て字である。しかし間島にも日本軍が進出していて、足の踏み場もないような状態だったので、各地方を視察した後、夏の終わりにロシア領に入ってウラジオストクに到着した。ここで青年会に参加して喧嘩で耳を負傷した。[要出典]

ウラジオストクで知り合った李範允は、間島管理使として清国と戦い、日露戦争時にはロシアに協力して亡命中の人物で、應七は大韓独立のために兵を起こし伊藤を倒そうと議論したが、李に財政的準備がないと最初は拒否された。しかし別に厳仁燮[注釈 15] と金起龍[注釈 16] という2人の義侠と知り合ったので、彼らと義兄弟の契りを結び、厳を長兄・安を次兄・金を末弟とし、3人で韓国人を相手に義を挙げる演説を各地で行った。彼らは「日露が開戦した時に宣戦布告文で東洋平和の維持と韓国独立を明示しながらその信義を守らず、反って韓国を侵略して五箇条条約や七箇条条約を課し、政権掌握、皇帝廃位、軍隊解散、鉄道、鉱山、森林、河川を掠奪した」と日本を非難し、それに怒った「二千万の民族が三千里の国内で義兵として蜂起しているが、賊は強く義兵を暴徒と見なして殺戮すること十万に至る」と苦境を訴え、日本の対韓政策がこのように残虐であるのは「日本の大政治家で老賊の伊藤博文」のせいであり、伊藤は韓国民は日本の保護を受けて平和であると「天皇を欺き、外国列強を欺き、その耳目を掩うて」奸計を弄しており、よって「この賊を誅殺しなければ、韓国は必ず滅び、東洋もまさに亡びる」と演説して伊藤暗殺の同志を募り、一方で独立運動の火が消えてしまわないように義兵運動の継続も訴えたので、これに応じる者、あるいは賛同して資金を出す者があり、金斗星(金都世)[注釈 17]や李範充等と300名の義兵を組織することができた[注釈 18]。これをもって、1908年6月、咸鏡北道に進入して日本軍と交戦したと、自伝には書かれている。日本軍人と民間人とを捕虜としたが、万国法で捕虜の殺戮は禁止されているから釈放すべしという安と、日本人を殺しに来たのにそれをしないのはおかしいという仲間と口論して、部隊を分かち別行動をしたところで日本軍に襲撃されて散り散りになってしまう。その後、集結するも6、70名程度に減り、食料が無くなり、村落で残飯を恵んでもらう有様となり、仲間を探している途中で再度伏兵狙撃にあって部隊は四散した。数名で苦労して豆満江に戻ってきて、本人の言うところの「敗軍の将」として生還した。[要出典]

1909年正月、同志12名[注釈 19][注釈 20] と共に「断指同盟」を結成して薬指を切り(指詰め)、その血で大極旗の前面に「大韓獨立」の文字を書き染めて決起した[16]。(日本政府の調査では、1908年4月頃に厳仁燮と金起龍と義兄弟になった際に、外2名[注釈 21] と共に盟約して、安と厳が伊藤博文の暗殺を、金らが李完用・朴斉純宋秉oの暗殺をすることに決めて、左手の薬指(無名指)を切ったという別の話を載せている[17] が、旅順監獄での警視の尋問に答えて4名での断指を否定し、12名であると言い、義弟で断指同盟の1人でもある金基龍と金起龍は別人で、金起龍は目的の達成を諦めて今は農業に従事していて事件には関与していないと主張した[18]。)

大東共報(海朝新聞[注釈 22])の李甲が友人であったので、3月21日付紙面に安應七名義で寄稿し、大韓帝国の国権回復のために同胞に団結を訴えた[19]。国内外に同志を派して情勢を探り、同年9月頃、伊藤博文を暗殺することになった[20]
伊藤博文暗殺事件詳細は「伊藤博文暗殺事件」を参照

1909年(明治42年)10月10日から15日の間、安は禹徳淳・曹道先と共に大東共報社を訪問し、伊藤博文暗殺を議論して、活動資金を無心した。資金を得ると、21日に安は禹とウラジオストクを出発し、22日、ハルビン市(哈爾浜)に到着した。また、劉東夏にロシア語通訳として同行を頼んだが、彼には計画は伝えなかった。この日、禹と劉と共にハルビン駅周辺を下見し、列車の到着時刻などを確認した[6]

3人はハルビンで曹道先と合流し、10月23日、劉を残して3名で蔡家溝に向かった。24日、安は電報でハルビンの劉に伊藤の動向を問い合わせたが、内容が要領を得ないものだったので、禹徳淳と曹道先を蔡家溝駅で見張らせるために残して、25日に安だけがハルビンに戻った。結局、安は『遠東報』[21]を見て翌日に伊藤が列車で来ることを知り、一人で決行することを決定。翌日、安は逃走時に備えて、劉を500メートル程離れた場所に馬車で待機させた[22]

10月26日午前9時、伊藤博文はロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するためにハルビン市に赴き、ハルビン駅に到着。安は伊藤らが列になってロシア要人らと握手を交わしていたところに、群衆を装って近づき、拳銃を発砲した。その場でただちに逮捕されたが、伊藤は約30分後に死亡した。

11月13日に安は旅順関東都督府地方法院予審を受け、11月16日に予審が結審、重罪公判に移された[23][24]。連累者は曹道先、禹徳淳、卓公圭、金麗水、金成玉、劉東夏、鄭大鎬、金衝在の8名。うち曹、禹、劉の3名以外は不起訴となった。第1回公判は1910年(明治43年)2月7日で、5回目の公判で最終弁論となり、公判開始からちょうど一週間後に判決の言い渡しとなった。1910年(明治43年)2月14日に判決が言い渡され[25]、安と共犯3名は全員が有罪判決を受けた。共犯者とされた禹徳淳には殺人幇助と殺人予備罪により懲役3年、曹道先及び劉東夏には幇助罪により懲役1年6ヶ月の判決、実行犯の安重根には殺人予備罪により死刑が宣告された。
投獄と最期「一日不讀書口中生荊棘」安重根が獄中で書いた遺墨の一つ。(韓国の国宝)

裁判を統轄した判事は、死刑執行までには少なくとも判決後2、3か月の猶予が与えられるとしていた。しかし内地の日本政府は、事件の重大性を鑑みて死刑の速やかな執行を命じた[26]


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