安部公房
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同年12月9日、エッセイ『問題下降に依る肯定の批判』[5]を書き、翌年2月に発行された高校の校友会誌「城」の第40号に掲載される。これが安部の活字化された最初の作品となった。

1943年 (昭和18年) 3月、戦時下のため繰上げ卒業。この頃、安部の初の小説とされる『(霊媒の話より) 題未定』を書く[6]。同年10月、東京帝国大学医学部医学科に入学。1944年、文科系学生の徴兵猶予が取り消されて次々と戦場へ学徒出陣していく中、「次は理科系が徴兵される番だ」という想いと「敗戦が近い」という噂から家族の安否を気遣い、同年末に大学に無断で満洲に帰るが、友人が代返をして取り繕ってくれていた。1945年 (昭和20年)、奉天で開業医をしていた父の手伝いをしていた頃に召集令状が届くが、入営前に8月15日の終戦を迎えた。同年冬、発疹チフスが大流行して、診療にあたっていた父が感染して死亡する。

1946年 (昭和21年)、敗戦のために家を追われ、奉天市内を転々としながらサイダー製造などで生活費を得る。同年の暮れに引き揚げ船にて帰国。北海道の祖父母宅へ家族を送りとどけたのち帰京する。以後、安部は中国を再訪することはなく、小説家としても満洲における体験を書くことはなかった[注釈 4]
帰国・作家デビュー

1947年 (昭和22年) 3月、女子美術専門学校 (現女子美術大学) の学生で日本画を専攻していた山田真知子 (後年、安部真知名義で安部の著書の装幀や芝居の舞台美術を手掛ける) と結婚し、それまで真知子が住んでいたアパートで同居生活を始める。同年、安部は満洲からの引き揚げ体験のイメージに基づく『無名詩集』を、謄写版印刷により自費出版する。ライナー・マリア・リルケマルティン・ハイデッガーの影響を受けたこの62ページの詩集には、失われた青春への苦悩と現実との対決の意思が強く込められていた[8][注釈 5]

1948年 (昭和23年)、東大医学部を卒業。ただし、医師にならないことを前提とした条件付きの卒業単位付与であり[注釈 6]、医師国家試験は受験しなかった[注釈 7]

同年、安部は「粘土塀」と題した処女長篇を、成城高校時代のドイツ語教師・阿部六郎のもとに持ち込んだ。この長篇は、一切の故郷を拒否する放浪の末に、満洲の匪賊の虜囚となった日本人青年が書き綴った、3冊のノートの形式を取った物語であったが、阿部六郎はこの作品を文芸誌『近代文学』の編集者の1人である埴谷雄高に送った[12]。埴谷はただちに安部の才能を認めたが、当時の「近代文学」の編集は合議制であり、埴谷は同人の平野謙に却下されることを危惧し、他の雑誌へ安部を推挙した。その結果「粘土塀」の内の「第一のノート」が『終りし道の標べに』と改題され「個性」2月号に掲載された。これが安部にとってはじめての商業誌への作品発表となる。これがきっかけとなり、安部は埴谷、花田清輝岡本太郎らが運営する「夜の会」に参加。埴谷、花田らの尽力により、1948年10月「粘土塀」は『終りし道の標べに』として真善美社から単行本で上梓された。

1949年 (昭和24年) 4月、初めてシュルレアリスムの手法を採り入れた短篇小説、『デンドロカカリヤ』を発表する[13]
1950年代・芥川賞受賞『毎日グラフ』1954年9月1日号より

1950年 (昭和25年)、勅使河原宏瀬木慎一らと共に「世紀の会」を結成。埴谷によると、この時期の安部は食うや食わずの極貧で、売血をしながら何とか生活をしているという有様であり、埴谷は幾度か安部に生活費をカンパしたほどだったという。同年夏ごろ、日本共産党に入党[注釈 8]1951年 (昭和26年)、「近代文学」2月号に安部の短篇「壁 - S・カルマ氏の犯罪」が掲載される。これは、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に触発された作品であり、テーマとして満洲での原野体験や、花田清輝の鉱物主義の影響が見られる超現実主義的な内容である。

「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は1951年上半期の第25回芥川賞の候補となり、選考委員の宇野浩二からは酷評されたものの、川端康成瀧井孝作の強い推挙が決め手となり、同じく候補に挙げられていた石川利光の『春の草』とともに受賞を果たす。川端は『壁』のような作品の出現に今日の必然性を感じ、新味があり好奇心をそそったとしている[15]。同年5月28日、この短篇は「S・カルマ氏の犯罪」と改題され、短篇「バベルの塔の狸」と、4つのパートからなる中篇「赤い繭」を加え、石川淳の序文、勅使河原宏による装幀、桂川寛の挿絵を得て、安部の最初の短篇集『壁』が刊行された。

同年、友人である赤塚徹の伝手で画家の黒崎義介茗荷谷に所有していた敷地内の納屋を借り、真知や友人たちの手を借りて改装し転居する。11月、短篇小説『闖入者』を発表。1952年 (昭和27年) 5月、江馬修徳永直野間宏藤森成吉らとともに『人民文学』に参加。『人民文学』が『新日本文学』と合流した後は新日本文学会に移る。6月、短篇小説『水中都市』を発表。
劇作への傾倒1955年、劇団俳優座による『どれい狩り』公演。右手前は閣下を演じる浜田寅彦

1953年 (昭和28年) 3月、短篇小説『R62号の発明』を発表。7月、初の戯曲作品『少女と魚』[16]を発表。以後盛んに劇作をおこない、推敲を重ねて改作し様々な媒体で発表するようになる。1954年 (昭和29年) 2月、長篇小説『飢餓同盟』発表。同年、長女誕生。真知の発案で宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」から採った「ねり」と命名する[17]。12月、小説『奴隷狩』[18]を翌年3月にかけて発表するが中絶。1953年 (昭和28年) 3月、戯曲『制服』[19]を発表。6月、前年に未完のまま中絶していた小説を戯曲『どれい狩り』[20]として発表、劇団俳優座によって上演される。7月、小説『闖入者』を沼田幸二との共同脚本によるラジオドラマとして放送。同月、短篇小説『棒』を発表。8月、戯曲『快速船』[21]を発表。

1956年 (昭和31年) 4月、中野区野方の借家に転居。同月17日、新日本文学会と国民文化会議の代表としてチェコ作家大会参加のためプラハを訪問、スロヴァキア各国を周り6月24日に帰国する。11月から12月にかけてラジオドラマ『耳』および『口』[22]が放送される。1957年 (昭和32年) 2月、前年に訪問した東欧の印象をまとめたエッセイ集『東欧を行く ハンガリア問題の背景』を刊行。4月、長篇小説『けものたちは故郷をめざす』を発表。5月、花田清輝、佐々木基一、関根弘、野間宏、勅使河原宏、長谷川龍生らと「記録芸術の会」[注釈 10]を結成する。6月、短篇小説『夢の兵士』発表。同月、子供向けのラジオドラマ『キッチュ・クッチュ・ケッチュ』[24]田中明夫ほかの出演で放送。7月、『夢の兵士』をラジオドラマ化した『兵士脱走』放送。11月、短篇小説『鉛の卵』発表。同月、小説『棒』を戯曲化したラジオドラマ『棒になった男』[25]放送。12月、1954年から1957年にかけて書かれたエッセイをまとめた単行本『猛獣の心に計算器の手を』刊行。

1958年 (昭和33年) 1月より『群像』にエッセイ『裁かれる記録 映画芸術論』[26]を1年間連載。6月、戯曲『幽霊はここにいる』を劇団俳優座により上演。7月、長篇小説『第四間氷期』を発表。10月、短篇小説『使者』を発表。1959年 (昭和34年) 3月、前年発表の『使者』が『人間そっくり』として戯曲化される。4月、勅使河原宏から譲り受けた調布市若葉町仙川の敷地に真知の設計になる新居を建て、家族とともに転居する。5月11日よりNHKラジオ第1放送にて子供向けのラジオドラマ『ひげの生えたパイプ』[27]熊倉一雄ほかの出演により放送。8月23日よりミュージカル『可愛い女』[28]千田是也の演出、黛敏郎の音楽、ペギー葉山ほかの出演で上演。10月、ラジオドラマ『兵士脱走』を和田勉の演出によりテレビドラマ化した『日本の日蝕』[29]をNHKにて放送。


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