スタジオジブリの先輩であり、苦楽を共にした近藤喜文を師と仰ぎ、尊敬している[2][8]。近藤からは作画における人物の捉え方や動作の描き方などの技術面からアニメーションの仕事に取り組む姿勢まで、多大な影響を受けている。近藤のアニメーターとしての仕事を取り上げた書籍「近藤喜文の仕事-動画で表現できること-」(スタジオジブリ発行)の責任編集や、全国巡回中の「この男がジブリを支えた。近藤喜文展」の音声ガイドも担当している。
漫画家の高野文子のファンで、『千と千尋の神隠し』の作画監督を務めた際、高野の絵のように少ない線で人間のリアルなラインを描く表現を作品に取り入れる試みを行った[9]。同作では沖浦啓之監督の『人狼 JIN-ROH』の影響も受けて、それまでのジブリにはないリアルな人物表現を取り入れようとして従来作品通りの演出の宮崎駿監督との間に方向性においてズレが生じた[10]。
作画監督で参加した新海誠監督の『君の名は。』では、それまでの新海作品になかったキャラクターの演技(動き)の機微で際立った変化をもたらした[11]。ジブリの同僚だった吉田健一は、安藤がキャラクターデザインへの興味が強く、デザインの良さを咀嚼した上で精度の高い作画が出来るアニメーターだったことが成功の要因だったと語っている[12]。また吉田は『君の名は。』の評価やヒットの要因の分析は新海作品としてどう優れているのかということに偏り過ぎていて絵の力を軽視しているとも語っている[12]。アニメーション映画が大ヒットする場合、色や動画のクオリティを抜きに考えることは出来ず、1,900万人もの観客が2時間の映画をストレスや疲れを感じずに見られたのは観客をドラマに集中させる良質な技術の積み重ねによるもので、それは安藤を中心とした、動画も含めた全作画スタッフの力が大きいというのが吉田の分析である[12]。 10代のころ、月刊アニメージュに『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』のイラストを投稿して掲載された。 日本大学芸術学部在学中の1989年にスタジオジブリを受験し合格、半年後の1990年に研修生の二期生として入社する[注 3][2][5]。 1991年公開の『おもひでぽろぽろ』の動画からアニメーターとしての活動をスタートし、『紅の豚』『海がきこえる』『平成狸合戦ぽんぽこ』『耳をすませば』で原画を担当[15]。宮崎駿にその才能を認められ、短編『On Your Mark』で初めて作画監督を任され、25歳で『もののけ姫』のチーフ作画監督に抜擢される[15][16]。『もののけ姫』では宮崎駿のイメージボードを基にキャラクター設定も行った[17]。 2001年の『千と千尋の神隠し』でメインの作画監督を務め、当初は演出も任されるという話もあった。しかしキャラクターの描き方や作画作業の役割、演出の方向性での意見の違いから宮崎監督と対立する[10][18]。 2003年、スタジオジブリを退社してフリーとなる[19]。以後、今敏監督作品に参加するようになり、映画『東京ゴッドファーザーズ』では作画監督、映画『パプリカ』ではキャラクターデザインと作画監督、テレビアニメ『妄想代理人』ではキャラクターデザインを担当した[18]。
来歴