安芸藩
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宝永3年(1706年)に義士遺族の放免が行われたのち、大石良雄の三男・良恭や小山氏・萱野氏など赤穂藩の旧臣を召抱えるようになった。藩では浅野家との婚姻により、大石家を一門化しようとしたがことごとく失敗し[注釈 7]、藩主の不興を買った大石家は減封・絶家・再興・除籍・他家からの養子入りが繰り返された。ほかに武林氏(隆重の兄の家系)が絶家となっている。

また、赤穂藩の藩札回収に広島本家と三次藩からの多額の援助が行われ、赤穂藩の断絶後に鴻池家からの借財が桁違いに増加している[3]。延宝8年の赤穂藩藩札が広島藩(現在は広島市)に残っており[注釈 8]、浅野本家からの援助があった裏付けとなっている[4]。このような事情もあり、綱長時代の藩政は商品経済の発達による藩財政の行き詰まりが顕著になったため、家臣団の知行削減や藩札の大量発行が行われた。

こうして江戸時代中期になると、財政は悪化に転じた。第5代藩主・浅野吉長(綱長の長男)は家老から実権を奪い返して親政を試み、有能な人材登用、「郡方新格」による郡村支配の強化を目指して藩政改革を試みたが、郡村支配の強化は反発を招いて享保3年(1718年)3月に大規模な一揆にあい、失敗に終わった。なお、享保5年(1720年)5月に三次藩浅野家が断絶したため、享保15年(1730年)3月に吉長は弟の長賢に蔵米3万石を分与して、新田分知(広島新田藩)を立藩し、本家の継嗣が断絶した際に備えた。また享保10年(1725年)、藩校として「講学所」を創始した。幕府寄りの浅野家では朱子学が藩学とされ、山鹿流などの古学は排斥されている。

第6代藩主・宗恒(吉長の長男)は宝暦の改革と言われる藩政改革に着手して成功を収め、財政が好転する。第7代藩主・重晟(宗恒の長男)は緊縮財政政策を採用し、徹底した諸制度の簡素化や綱紀の粛正を図り、これも成功したが、天明期に相次ぐ洪水や旱魃、冷害、虫害などによる凶作・飢餓に悩まされ、結局のところ、財政は悪化した。しかも天明6年(1786年)には打ちこわしも起こっている。第8代藩主・斉賢は、重晟の長男である。

第9代藩主・斉粛(斉賢の長男)は、第11代将軍徳川家斉の娘・末姫との婚儀、饒津神社の造営、幕府の手伝い普請、凶作が相次ぎ、幕末になると藩財政は窮乏の一途をたどった。このため斉粛は殖産興業の実施・藩内産物の専売制の強化を行った。しかし藩札の濫発による物価騰貴、専売制の反対一揆などが相次ぎ、さらに藩政改革の手法をめぐって家臣団で対立まで起こり、改革は事実上頓挫した。第10代藩主・慶熾は、斉粛の長男である。

第11代藩主・長訓(重晟の孫)は先代からの藩政改革を受け継ぎ、文久2年(1862年)、辻将曹を家老に抜擢し文久の改革を行った。藩政機構・支配体系の中央集権化を図り、財政を強化し軍備を近代化し、成功をみた。長州征討で広島は最前線基地となり、戦争景気に湧いた。しかし長州征伐そのものには否定的であり、幕府と長州藩の仲介を務める一方で、幕府が命じた長征の先鋒役を辞退している。

慶応2年(1866年)に第14代将軍・徳川家茂が死去し、第2次長征が事実上幕府軍の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、慶応3年(1867年)には長州藩・薩摩藩と同盟を結び、倒幕に踏み切った。一方で、第15代将軍・徳川慶喜大政奉還の建白を行うなどしたため、日和見藩として不信を招き、明治維新の主流からは外された形となった[5]。しかし戊辰戦争では官軍に参加して戦った。

明治2年(1869年)6月、第12代藩主・長勲(重晟の曾孫)は版籍奉還により広島藩知事に任じられる。同年同月に明治政府に報告した藩の負債総額は374万2千290両であった[6]

明治4年(1871年)、廃藩置県により広島県となった。廃藩置県後の報告では藩札の未回収残が83万両余(銀札では17万9千482貫余)残っており、これらは明治政府により交換されることとなった。さらに広島藩(のち広島県)における重臣(勘定奉行ほか)による贋金作りが露見し、浅野長勲は二分金や金札が三原要害・東山屋敷・浅野忠英邸などにおいて製造されていたとの内容の報告書を提出し、関係者が処罰されている(長勲は不定期の謹慎)[7]

明治17年(1884年)、旧藩主・浅野家は侯爵となり華族に列し、家老三家は男爵となった。なお長勲は昭和12年(1937年)に96歳で死去するまで長寿を保ち、当時の報道媒体からは「最後の殿様」ともてはやされたという。

なお、支藩(分家)として三次藩広島新田藩があった。また赤穂藩(元の常陸真壁藩、同笠間藩)も分家といわれる場合もあるが、正確には別家である[注釈 9]
歴代藩主
福島家福島正則

外様 49万8000石 (1600年 - 1619年)
正則

浅野家

外様 42万6000石 (1619年 - 1871年)
長晟

光晟

綱晟

綱長

吉長

宗恒

重晟

斉賢

斉粛

慶熾

茂長

長勲

支藩

三次藩

広島新田藩

真岡藩・真壁藩・笠間藩・赤穂藩

下野国真岡藩2万石(1601 - 1611年)

常陸国真壁藩5万石(1611 - 1622年)

常陸国笠間藩5万3500石(1622 - 1645年)

播磨国赤穂藩5万3500石(1645 - 1701年)、1671年に分家を2戸創設のため分地により5万石に変更

浅野長重(浅野長政の三男)の系統。1701年に浅野長矩が吉良義央に対して殿中で刃傷に及び改易。長矩の弟・浅野長広が、宝永7年(1710年)に安房国のうちで500石に減封となったが旗本に復した。その後、長栄で男系は絶え、長楽の代で断絶した。


別流分家

若狭野浅野家(赤穂郡相生村)浅野長恒が1671年に兄・長友から3000石を分与されて成立。

家原浅野家(加東郡
[注釈 10]家原)浅野長賢が同年、同じく3500石を分与されて成立。

家臣団

広島藩は外様の大藩に多い地方知行制を採用し、家臣の知行高は42万石余のうち、知行総高29万3千石を占めた[8][注釈 11]

寛永18年(1641年)以降、以下が三家老家として固定した。家老は自身の知行地を持つが、その陪臣(1万石で約150人)は知行地を賜わっていたものではなく、米を現物支給されていた[9]。三原浅野氏の場合、およそ500人の陪臣を抱えていた(うち100石取り以上の士分が77人、ほかに徒士足軽など)[10]
家老

三原浅野家(備後三原領3万石(現在の三原市)・藩主一門・三原要害[注釈 12])・筆頭家老、維新後男爵浅野忠吉浅野長政の従弟)=忠長?忠真?忠義?忠綏?忠晨忠正忠愛忠順忠敬=敬五

東城浅野家(備後東城領1万石(現在の庄原市東城町)・藩主一門) 維新後男爵浅野高勝(堀田高勝)?高英?高次?高尚=高方?俊峰?高明=道寧=高景?高通=高平=道博=道興=道敏=守夫

上田家(安芸小方領2万石・家臣) 維新後男爵上田重安?重政?重次?重羽?義行?義従?義敷=義珍?安虎?安世=安節=重美=亀次郎

居城

広島城三原要害(三原浅野家・一城令により「城」から改称。また、浅野領は福島領より狭小なため、神辺城は広島藩内ではない)

福島家の時代、広島城のほか三原城・神辺城鞆城・尾関山城・五品嶽城の5支城を持ったが、一国一城令により安芸国は広島城、備後国は神辺城以外の破却を幕府から命じられた[11]


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