安禄山
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また、科挙の不正があったことを告発し、それが事実であったため、試験官の吏部侍郎の苗晋卿と宋遙、不正受験者の父であった張倚が左遷されている。

天宝3年(744年)、裴寛に代わり、范陽節度使・河北採訪使に任じられ、平盧節度使を留任したままで節度使職を兼ねることになる。黜陟使の席豫は、安禄山は『公直無私』とし、李林甫と裴寛からも誉めあげられた。このまま、玄宗からの信任はますます厚くなった。

天宝4年(745年)、奚と契丹を攻撃して打ち破った[注釈 5]。この帰路に、「李靖李勣(唐建国時における名将)が自分に食事を求める夢を見た」という上奏を行っている。
奇怪な母子

天宝6年(747年)、御史大夫を兼任し、妻の康氏と段氏が国夫人に封じられた。配下の劉駱谷を長安へ留めておき、朝廷の動きを全て報告させ、上奏文は代作させていた。また、多くの献上物をしばしば長安に贈った。そのため、通過点にあたる州県はその運搬に疲弊するほどだった。玄宗は、勤政楼の祝宴において玉座の東隣に安禄山を特別に座らせるほどの寵愛ぶりであった。また、楊貴妃の養子になることを請い、それが実現すると入朝して玄宗より先に楊貴妃に拝礼した。理由を問われると、「私は胡人なので、礼は母を先、父を後にします」と答えた。玄宗は大いに喜び、楊貴妃の兄弟姉妹(楊銛・楊リ・楊貴妃の3人の姉)に義兄弟となるように命じ、これも実現している。皇太子の李亨(後の粛宗)が余りの寵愛はかえって驕りを生むだろうと玄宗に忠告したが、聴かれることはなかった。

この頃、安禄山は范陽の北に雄武城を築き、同羅(鉄勒の一部)・契丹・奚の騎馬民族出身の曳落河(胡語で勇士の意味)を集め、軍馬家畜を集めていた。また、胡人の商人を各地に派遣して、毎年、大量の品や衣を納付させていた。商人たちに引見した時には、生け贄の儀式を行い、女巫に舞わせ、自分を神になぞらえさせていた。これを知った隴右・朔方・河西・河東節度使の王忠嗣が、何度も「安禄山は必ず謀反するでしょう」と上奏するが、同年、王忠嗣は失脚した。

天宝7年(748年)には玄宗に武勲を賞する鉄券を与えられる。

天宝9年(750年)、東平郡王に任じられる。同年に、河北道采処置使も兼ねることとなった。奚・契丹に酋長を宴会に呼び、毒酒で酔わせ、数千人を穴埋めとした。酋長の首を献上しており、このようなことが四回もあったと伝えられる。入朝すると、玄宗は楊国忠や楊貴妃の兄弟姉妹に、途上で迎えさせた。奚の捕虜8千人と私鋳した銭を献上した。

天宝10年(751年)、誕生日に玄宗と楊貴妃から多くの贈り物を贈られる。入朝して楊貴妃の赤子を演じ、おむつをして大きな揺り籠に入って出てきて、玄宗を喜ばせ、宮中に自由に出入りするようになる。河東節度使を兼任し、長男の安慶宗は郡主と婚姻し、太僕卿に任じられ、その弟の安慶緒は鴻臚卿に任じられた。これにより、范陽・平盧・河東の3つの節度使を兼ねることとなった。部下の劉駱谷を長安にとどめて情報を収集させ、毎月、献上品を都にとどけた。

同年、兵5、6万を率いて契丹と交戦したが、長雨によって弓矢が濡れて兵士が困窮しているところに、契丹と奚に挟み討たれ、武将の何思徳は捕らえられてほぼ全滅させられた。安禄山はその髪飾りを射られ、旗下の20数名と逃亡して穴に落下したが、次男の安慶緒に救われて平盧城まで逃走している。またこの頃から、宰相の楊国忠が、安禄山が必ず反乱を起こすという上奏を、何度もおこなっている。

天宝11年(752年)、正月に長安に入朝した時に、高力士が間に入って王忠嗣の後任である哥舒翰と開いた宴の席で、口論となり不仲となる。

同年、20万と号する兵を集め、契丹を討とうとした。玄宗に朔方節度使の阿布思の援助を求めたが、阿布思は安禄山の襲撃を怖れて、唐に反して漠北に帰ってしまった。天宝12年(753年)、阿布思がウイグルに攻撃され、逃亡したので、その配下の九姓鉄勒を降伏させ、その軍を手にいれた。皇太子の李亨が再度安禄山の危険性を伝えるが、玄宗は聞き入れなかった。また、安禄山の従兄である安思順も安禄山と不仲であり、必ず謀反すると訴えていたと伝えられる。

天宝12年(753年)、玄宗は宦官の輔?琳に調査させたが、彼は賄賂をもらって安禄山の忠誠を盛んに伝えた。楊国忠は「安禄山を召しても来ないでしょう」と玄宗に告げたが、安禄山は玄宗の招集に応じて上京している。天宝13年(754年)、正月に華清宮にて謁見。玄宗に、楊国忠から迫害されていることを訴え、左僕射・隴右群牧都使に就任し、吉温を副官として武部侍郎・御史中丞に就任させる。3月には、范陽に向かって、日々、3・4百里の速度で帰還し、帰り着いた。その後宰相となるように運動するが、楊国忠に阻まれ、吉温も汚職の罪で左遷させられる。この時、安禄山は反乱を決意したと伝えられる。安禄山の反状を訴えるものは、玄宗の怒りを買い、縛り上げられて安禄山の元に搬送された。

天宝14年(755年)、腹心の何千年を都に派遣して漢人の将軍を胡人に代える許可をもらう。玄宗が再び召すが、病と称して赴かなかった。安慶宗の婚礼も辞した。楊国忠は安禄山の秘密を暴こうと京兆尹の李?を動かし、長安の安禄山の邸宅を囲ませて家人を捕らえた。安禄山はこれに抗議し、李?は零陵郡太守に左遷させられた。

馬3千頭を献上する名目で6・7千の兵を都に入れようとしたが、達奚cの反対にあい、玄宗から却下された。その後、玄宗からの使者に対しても尊大な態度をふるまい、監禁も行った。
決起と燕国建国

李林甫の死後に楊国忠が宰相になると、このように徐々に状況が深刻化した。同年11月、玄宗より逆賊の楊国忠を討てとの密使を受けたと称して、安慶緒、腹心の高尚・厳荘・孫孝哲・阿史那承慶と謀り、范陽にて反乱を起こした。同羅・契丹など15万人の兵を20万と称して洛陽へ進軍、各地がその勢力下に帰属した中で抵抗にもあう。太原を守っていた楊光?は、安禄山の腹心である高?に捕らえられ処刑され、河北の諸郡は全て降伏した。玄宗は初めはこのことを信じなかったが、謀反を知ると、安禄山の長男である安慶宗と妻の康氏を処刑し、高仙芝封常清郭子儀程千里張介然・王承業ら武将に迎撃を命じる。

12月、安禄山の軍は黄河を渡り、霊昌郡陳留郡?陽郡を落として張介然と崔無?を処刑する。さらに、先鋒を田承嗣・安忠志・張孝忠に命じて洛陽を陥落させて封常清を敗走させ、李?盧奕を捕らえて処刑し、達奚cが降伏してきた。唐軍を率いて東進してきた高仙芝は封常清とともに潼関に退却し、さらに付近の数郡を降伏させる。高仙芝と封常清は、讒言を受けた上、退却の罪により玄宗の命で処刑された。代わりに安禄山と仲の悪かった哥舒翰が潼関に赴任してきた。

しかし、河北において、常山郡太守の顔杲卿平原郡太守顔真卿が唐臣として応戦し、何千年と高?が捕らえられ、河北の17郡がこれに応じた。また、范陽の留守を預かっていた賈循が、顔杲卿に呼応しようとしたのを知り、これを未然に殺した。そのため、潼関攻撃を止め、河北へと引き返す。

至徳元載(756年)正月、安禄山は、洛陽にて雄武皇帝として即位し、国号を燕とし、元号を「聖武」とする。安慶緒を晋王、達奚cを侍中、張通儒を中書令、高尚と厳荘を中書侍郎に任じる。また、史思明と蔡希徳に命じて常山を攻撃し陥落させ、顔杲卿を捕らえて処刑する。そのため、河北の奪還に成功した。しかし、唐側の郭子儀李光弼によって、史思明が敗北し、顔真卿が激しい抵抗を重ね、再び河北の情勢は危うくなる。再度、史思明が郭子儀と李光弼に敗北したことにより、河北の十数郡が唐に奪われる。南方も唐側の張巡らの活躍によって、配下の尹士奇や令狐潮の進軍を止められてしまう。苦境に立たされた安禄山は、反乱を勧めていた高尚と厳荘を呼び出して、不首尾を叱責し、田乾真がとりなす場面もあったと伝えられる。5月には、奚と契丹が留守中の范陽を攻撃するという事件もあった。

この危機を救ったのが、唐側の内部抗争であった。楊国忠の横暴が反乱を招いた原因となったと考えられ、潼関を守る哥舒翰と楊国忠が不仲となったため安思順が謀反の疑いで殺されるなどの事件が相次いでいた。そのため、同年6月、楊国忠が玄宗を説いて、哥舒翰を無理に潼関から出撃させる。陝郡を守っていた安禄山の将である崔乾祐は伏兵を構えてこれを全滅させ、哥舒翰も配下に捕らえられて降伏する。安禄山は、哥舒翰を司空に任じたが、彼の勧告に誰も応じないのを知って監禁する。
あえない最期

このため、玄宗は長安を捨てての地へ逃亡し、途中で楊国忠は唐の兵士に殺されるが、安禄山はそれに気づかずに崔乾祐を潼関にとどめさせたと伝えられる。その後、腹心の孫孝哲・張通儒・安守忠・田乾真を長安に派遣し、関中を治めさせた。陳希烈張均張?らは降伏し、王維は捕らえられ、洛陽に連行された。孫孝哲は皇族や唐の群臣の一族に対する老弱問わない虐殺を行い、安禄山の将は略奪に夢中になったため、玄宗と皇太子の李亨の追撃を行わなかった。そのため、唐側は態勢を立て直すのに成功したと伝えられる。

安禄山は、教坊や梨園にいる楽人や舞馬・犀・象を集めて、洛陽に送らせ、孫孝哲に命じて、民間のものまで全て略奪させた。そのため、関中の豪族たちが唐側について決起した。また、配下の阿史那従礼が離反し、このため、関中を抑えるのがやっとという状態になった。河北では顔真卿が抵抗を続け、南では張巡の守る雍丘を陥落できない状況が続いていた。また、安禄山も武将とも会わず、腹心の厳荘を通して話すようになっていた。

唐の皇太子であった李亨が粛宗として、霊武にて即位した。そこに、郭子儀が軍を率いて加わってきたため、長安は動揺して唐への降伏者が相次いだ。これに対し、安守忠が房?率いる唐軍を撃破して唐軍の進撃を止める。また、郭子儀と李光弼が山西に退いている隙に、史思明が河北で勝利し、顔真卿も平原を放棄し河南に逃げる。これにより、再び、燕国に形勢が傾いてきた。

至徳2載(757年)正月、決起以来、目が悪くなっていた安禄山は、この頃に失明糖尿病性網膜症とも言われる)し、悪性の腫物に悩まされていた。その影響から周りの人間に対し粗暴になり、皇帝を称して以来、重んじていた厳荘や宦官の李猪児を折檻するようになっていた。この時、安禄山は、太子に任じていた安慶緒を廃して、妾の段氏の生んだ三男の安慶恩に後を継がせようとしていた。これを知った厳荘が、安慶緒や李猪児と共謀し、李猪児が安禄山の腹を刺して暗殺した。箝口令がしかれ、安禄山は重病であるとされ、安慶緒が後を嗣ぎ、安禄山は太上皇とされた後、喪をなされた。安禄山が皇帝を名乗って1年、55歳であった。

その後、この乱は安慶緒によって続けられ、さらに、安慶緒を殺した史思明に引き継がれたために安史の乱と呼ばれるようになり、史思明の子の史朝義が殺される763年まで続くことになった。この後も、安禄山の旧領はその配下であった3人が節度使として任命され、「河北三鎮」として唐に反抗的な態度を続けることになる。


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