被災したのは江戸を中心とする関東平野南部の狭い地域に限られたが、大都市江戸の被害は甚大であった。被害は軟弱地盤である沖積層の厚みに明確に比例するもので、武蔵野台地上の山手地区や、埋没した洪積台地が地表面のすぐ下に伏在する日本橋地区の大半や銀座などでは、大名屋敷が半壊にとどまることなどから震度5強程度とみられ、被害は少なかったが、下町地区、とりわけ埋立ての歴史の浅い隅田川東岸の深川や浅草の吉原などでは、震度6弱以上と推定され、甚大な被害を生じた。また、日比谷から西の丸下、大手町、神田神保町といった谷地を埋め立てた地域でも、大名屋敷が全壊した記録が残っているなど、被害が大きく、震度6弱以上と推定されている。また福井県や大阪府で震度4から5と見られる揺れがあり、異常震域があったと考えられる[22]。 死者は町方において10月6日の初回の幕府による公式調査では4,394人[23]、10月中旬の2回目の調査では4741人であり、倒壊家屋14346戸とされている。またこれに寺社領、より広い居住地を有し特に被害が甚大であった武家屋敷を含めると死者は1万人くらいであろうとされる[6]。 『破窓の記』には「今度の地震、山川高低の間、高地は緩く、低地は急なり。その体、青山、麻布、四谷、本郷、駒込辺の高地は緩にて、御曲輪内、小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川辺は急なり。その謂れ、自然の理有るべし。」とあり、当時から特に揺れの激しい地域の存在が認識されていた[24]。 地震直後に30余箇所から出火、朝から小雨で微風であったため大規模な延焼は起きず翌日の午前10時頃には鎮火したが 1.5 km2を焼失した、古い資料では焼失面積は2.2 km2とされている資料も存在するが、 1.5 km2と再計算された[21]。旗本・御家人らの屋敷は約80%が焼失、全潰、半潰または破損の被害を受けた。亀有では田畑に小山や沼が出来、その損害は約3万石に上った[25]。 小石川の水戸藩藩邸が倒壊して、水戸藩主の徳川斉昭の腹心で、水戸の両田と言われた戸田忠太夫、藤田東湖らが死亡した[5]。また斉昭の婿である盛岡藩藩主南部利剛も負傷した。指導者を失った水戸藩は内部抗争が激化、安政7年(1860年)の桜田門外の変へとつながった[26]。 江戸城や幕閣らの屋敷が大被害を受け、将軍家定は一時的に吹上御庭に避難した。江戸幕府は前年の安政東海・南海地震で被災した各藩に対する復興資金の貸付、復旧事業の出費に加えて、この地震による旗本・御家人、さらに被災者への支援、江戸市中の復興に多額の出費を強いられ、幕末の多難な時局における財政悪化を深刻化させた[26]。 津波が起きたとする記録は無いが、地震動によって誘発されたと思われる川や溝の水が揺れ、はね上がる現象は生じていたと思われる[27]。 『安政見聞誌』や『破窓の記』などには江戸各所の被害が詳細に記録され、地震当日から10月中の約一か月間の余震がその強さに応じて黒丸(夜)および白丸(昼)の大きさで表示され、余震回数が日時の経過とともに減少していく様子が窺える[28][29]。『なゐの日並』には日記形式で11月中頃まで余震が記録されている[30]。ここで夜とは、翌朝の夜明けまでを指す。時刻についての詳細は十二時辰を参照。 十月一ヶ月地震之記(余震度数と強度)二日●四時 ●四過 ●九半 ●八時 ●八半 ●七時 ●七過 ●同 ●七半 ●七半
犠牲者
火災
津波
余震
三日○九時 ○七時 ●五時 ●四時 ●八時
四日○八半 ○七過 ●九半 ●八半過 ●八過
五日○六時 ○八時 ●六時 ●九時 ●九半 ●八過 ●七時 ●七過
六日○六時 ○四時 ○七時 ●九時 ●八時 ●七半
七日○四時 ○七時 ●六過 ●五過 ●九過
八日○七時 ●六過 ●九半 ●七過
九日○五時 ●四過 ●七過
十日○六過 ●六過
十一日○八時 ●四過 ●九半
十二日○八半
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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