小浜(現・小浜市『続地震雑纂』[21])や尾鷲九鬼(現・尾鷲市『九木浦庄屋宮崎和右衛門御用留』[22])では地震動は南海地震より東海地震の方が強く感じられたが、那智勝浦(現・那智勝浦町『嘉永七年寅十一月 大地震洪浪記録書』[23])や湯浅(現・湯浅町『深専寺門前碑文』[24])・広(現・広川町『濱口梧陵手記』[25])では南海地震の方が強く感じられた。京都(現・京都市)では東海地震の方がやや強いか(『安政元寅年正月より同卯ノ三月迄御写物』[26])、ほぼ同程度で(『御広間雑記』[27])、大坂でも両地震の強さは同程度であり(現・大阪市『鍾奇斎日々雑記』[28])、破損の度合いを加えたが、南海地震では津波被害も加わった。
震度6と推定される領域は四国の太平洋側から紀伊水道沿岸部、淡路島、大阪平野および播州平野、震度4以上の領域は九州から中部地方に及び[29]、震源域の長さは約400kmと推定される[30][31]。
中国(当時は清王朝)でも有感だった。『中国地震歴史資料彙編』には江蘇粛県や嘉定(現在の上海市嘉定区)で「水溢地震」、上海で「黄浦水沸二三尺、嘉定、蘇州皆同」と記されており[32]、震央から約1300km離れた上海付近でも有感であったという[33]。津波が到達したとする説もあるが、長周期地震動によるセイシュが水面を動揺させた可能性もある。2日後の豊予海峡地震でも上海付近でかなり揺れたらしい[34]。 被害は中部地方から九州地方へ及び、2つの巨大地震が重なった近畿地方では東海地震における被害と明確に区別ができない。その上、伊予や豊後、特に肥後人吉等では約42時間後に発生した豊予海峡地震被害との区別が困難である。 宝永地震と同じく、出雲杵築周辺でも震動が強く潰家が150軒あった(『嘉永甲寅諸国地震記』[35])[36]。一方で宝永地震とは異なり、冬至頃の気温の下がる夕刻でかつ夕食の支度で火を使う時間帯であり、火災が多く発生した。特に高知、中村および宿毛は大火事に見舞われた[37]。土佐国(現、高知県)での死者は、藩主:山内豊信により372名と集計・報告されている[38]。 吉野川下流域では液状化現象が見られ、加賀須野村では「土砂多数吹上川之如くに相成り跡に而砂取捨地毎に数百石申出候川筋は津波壱丈程参り候由下吉衛築新田大荒白海之如く相成り」(『大地震実録記』[39])と記録される。上板町の神宅遺跡にもこの地震による液状化現象の痕跡が見られる[40]。 なお、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』(「寅の大変」の節がある)では、坂本龍馬が江戸にいる時に地震を感じた(江戸で強震であったのは東海地震)と描かれているが、史実では地震当日に既に土佐に滞在していた。 街道推定震度[1][2]
被害
畿内京都(4-5), 伏見(5), 宇治(5), 門真(5-6), 服部(6), 大坂(5-6), 布施(6), 堺(5), 岸和田(5-6), 奈良(5), 郡山(5), 五条(5), 尼崎(5-6), 西宮(5-6), 神戸(5)
東海道