河角廣は渡島半島東側の沿岸付近に震央(北緯42°、東経141.1°)を仮定し規模 MK = 4 を与え[7]、マグニチュードは M = 6.9 に換算されていた。
宇佐美龍夫(2003)は震度分布から震央を(北緯41.0°、東経142 1/2°[注 1])と仮定して M ≒ 7.5 とし、また1968年十勝沖地震に類似すると仮定すると震央は(北緯40.5°、東経143.5°)とより沖合いに仮定され、M = 7.8 - 8.0 になると推定している[1]。
相田勇(1977)も1968年十勝沖地震に類似すると考え断層モデルを仮定し、長さ120km、傾斜角約20°の低角逆断層、地震モーメント M0 = 3.1 × 1021N・m (Mw = 8.3[8]) が妥当としている[9]。またインバージョン手法の解析から1968年十勝沖地震と同様、断層北側においてすべり量が大きいと推定される[10]。 北海道太平洋側から三陸海岸にかけて顕著な津波に襲われた。『維新前北海道変災年表』には函館において「暫くて海水退きて又襲ひ来り、一進一退八九回に及び、夜に入りて定まれり」、また『時風録』には「未の下刻、高浪平水より壱丈余相増候」とあり、8 - 9回の津波襲来で波の高さは最大で12 - 13尺(3.6 - 3.9m)であったという[1]。 波高は野田 6m、大槌 5m、田の浜 17尺(5.1m)、小本 12 - 15尺(3.6 - 4.5m)、綾里 5 - 10尺(1.5 - 3.0m)と推定される[11]。『浦河郡役所報告』には浦河に停泊していた五百石船2隻が転覆し、さらに海岸から15町(約1.6km)ばかり海面上より2丈余(6m以上)の岩石に蛤殻の粘着して化石となる所有りと記録されている[6]。 南部藩領では流家93、潰家100、破損238軒とされ、八戸藩領では侍屋敷破損数軒、百姓家潰189、半潰53、流家33、船流失93隻、田畑の損1700石余、死者5人とされる[1]。 羽鳥徳太郎(1973)は三陸海岸の津波は1968年十勝沖地震とほぼ同程度だが、北海道沿岸では安政津波の方が2倍ほど大きいとしているものの、1968年の津波が干潮時であったことを考慮し、波源域
津波
なお、40年後に発生した明治三陸地震における津波で三陸海岸が大きな被害を受けた原因の一つとして、この時の津波の襲来が比較的緩やかで高さも低かったことから、津波の威力を軽視されてしまった可能性が指摘されている[12]。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ a b 歴史地震の場合、文献に震央位置が記載されていても、それは断層破壊開始点である本来の震源、その地表投影である震央ではない。地震学的な震源は地震計が無ければ決まらない。石橋克彦(2014)『南海トラフ巨大地震』, p7-8.
出典^ a b c d e f 宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年
^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”