安政年間の地震に関する幕府への領内・江戸屋敷の被害報告は『書付留』、『御城書』および『幕府沙汰書』などに記録され、各藩が拝借金を願出ている[18]。
伊賀上野地震
津藩 : 城内住居向大破、家中・町郷共に悉く破損に付き拝借金を願出た(『御城書』)。
桑名藩 : 居城が破損し、領内の川々の堤の損所も少なからずに付き拝借金5000両を願出た(『御城書』)。
東海地震
東海道筋 : 箱根は本陣が潰れ、三島・原・蒲原は皆倒れ、沼津・由比・興津・府中・鞠子・岡部・島田・金谷は家屋倒壊が著しく、吉原・江尻は大半を焼失、掛川・袋井は崩れた後焼失した(『嘉永甲寅諸国地震記』『三災録』『嘉永七年甲寅十一月四日大地震津浪』)。
沼津藩 : 沼津城二之丸で住居向が悉く潰れ、本丸、三之丸、侍屋敷、領分の在町も夥しく破損した(『書付留』)。
遠江気賀 : 高潮差入れ、田畑凡2800石が沈下して汐下となり湖の一部となった(『書付留』)。
尾張藩 : 4日・5日、余程の地震で所々破損があった。田畑6940石が存亡、材木426本などが津浪で流された(『御城書』)。
高遠藩 : 城内住居向破損数ヶ所、櫓・塀・門・侍屋敷・長屋破損(『書付留』)。
長島藩 : 城内住居向・櫓・士屋敷・在町など潰家があった(『書付留』)。
加納藩 : 4日・5日の地震で城内・侍屋敷・町郷潰家、堤が破損した(『書付留』)。
神戸藩 : 城内並び家中・城下村方・町屋・寺院など破損箇所があった(『書付留』)。
膳所藩 : 4日・5日の地震で本丸湖水高塀・三之丸水門・門・住居向破損、近国並び東海道宿々不容易となった(『書付留』)。
南海地震・豊予海峡地震
紀州藩 : 城内は破損なし、海岸付近の浦々は人家が多分に流失、死人多数、年貢米積船・廻船・漁船流失。16万8千石の田畑が津浪で荒れ、家26608軒が流失した(『御城書』)。
大坂 : 人家多く潰れ、大潮差込、船が木津川・安治川の上流側へ流され橋を落とし死者多数を出した(『嘉永甲寅諸国地震記』『続地震雑纂』)。
尼崎藩 : 4日・地震で櫓・住居向が多数破損、5日の地震津浪で城下・市郷とも数ヶ所潰家あり(『書付留』)。
松江藩 : 城内は別条なし、出雲では倒家、損所数多し(『書付留』)。
大洲藩 : 5日の地震で城内が所々破損し、7日の地震でも城内外、侍屋敷、町郷倒家、潰家があった(『書付留』)。
伊予吉田藩 : 5日から7日の地震で住居向・侍屋敷・在町共、潰家多数、海岸付近は高浪で所々破損した(『書付留』)。
土佐藩 : 城下上町は無事、下町・種崎などで死者356人。甲浦・須崎など浦々で家が皆流失した(『続地震雑纂』)。
江戸地震
江戸 : 希有なる大地震で所々出火し、江戸城は櫓・門・塀・石垣など震崩されずというところなし。若年寄・老中らが登城し御機嫌を伺った。天水桶の水がこぼれるほどの揺れならば御機嫌伺いに参るのが当時の慣習であった[28]。御曲輪内・小川町・下谷・根津・浅草・本所・深川・吉原・千住などは潰家が多かった(『幕府沙汰書』『時風録』)。将軍家定は江戸城の吹上御庭に避難した(『丹後国田辺藩牧野家日記』)。全体の死者は武家方・社家・寺院を籠めて幾ばくの人数か分からないが、取集めなば必1万人に余るなるべし。変死人の届出数は3万人余或は5万人余とも聞え、到て甚だしきは20万余人などと聞えるが何れも皆浮説にて取るべからず(『破窓の記』)。