安房国
■-安房国
■-東海道
別称房州(ぼうしゅう)
所属東海道
相当領域千葉県南部
諸元
国力中国
距離遠国
郡・郷数4郡32郷
国内主要施設
安房国府千葉県南房総市
安房国分寺千葉県館山市(安房国分寺跡)
安房国分尼寺(未詳)
一宮安房神社(千葉県館山市)
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安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の千葉県南部にあたる。 『古語拾遺』によれば、阿波国において穀物や麻を栽培していた天富命は、東国により良い土地を求め阿波の忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸し開拓を進めた。そして阿波の忌部氏の住んだ所は、「阿波」の名をとって「安房」と呼ばれたという[1]。また、『古語拾遺』の説のほか、『日本書紀』景行天皇53年10月条の東国巡狩の折の淡水門に因むとする説もある[2]。 明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。現在の行政区域で言うと、千葉県の南部の地域が旧安房国に該当する。 ・千葉県 ??館山市の全域 ??南房総市の全域 ??鴨川市 ??四方木を除く全域 律令制以前のこの地域には、阿波国造と長狭国造の2つの国造が置かれていた。律令制において令制国である上総国の一部となり、養老2年5月2日(718年6月4日)、上総国のうち阿波国造と長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を分けて安房国とした[1]。国造は「阿波」の表記であり、藤原京出土木簡に「己亥年十月上挟国阿波評松里」(己亥年は西暦699年)とあるなど、郡(評)の表記にもゆれがあるが、これに先立つ和銅6年(713年)の好字令で南海道の「粟国」が「阿波国」に変更されており「安房」の表記となった。天平13年12月10日(742年1月20日)に上総国に合したが、天平宝字元年(757年)に元に戻され、東海道に属する一国となり、国級は中国にランクされる[1]。 豊臣秀吉による小田原城攻め以後は、安房一国が里見氏の領地となった。関ヶ原の戦いでは、里見氏は徳川家康を支援して加封を受けたものの、江戸幕府成立後の慶長19年(1614年)に里見忠義が大久保忠隣改易に連座して伯耆国倉吉に転封。その後は、東条藩、勝山藩、北条藩、館山藩などの諸藩と、幕府領・旗本領が置かれた。村数は280ヵ村(天保期)。明治2年(1869年)安房では勝山、館山の2藩に、新たに長尾藩、花房藩の2藩が置かれた。この地の幕府領・旗本領は安房上総知県事・柴山典の管轄となり、翌年に宮谷県が置かれて柴山典が権知事となり、安房4郡の約5万6千石を管理した。明治4年(1872年)、廃藩置県によって木更津県に編入され、明治6年(1874年)木更津県と印旛県の合併により千葉県に編入された。明治30年(1897年)には安房国4郡が統合されて、千葉県安房郡に再編された。
「安房」の名称と由来
現在の行政区分での領域
沿革