安島氏
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^ 長福寺所蔵『小川家系図』参照。
^ 茨城県史編集会監修 著、茨城県立歴史館 編『茨城県史料中世編W』茨城県、1991年3月25日、325-326頁。 
^ 大子町史編さん委員会『大子町史 通史編 上巻』大子町、1988年3月 1988、277頁。 
^ a b c d e f 茂木和平『埼玉苗字辞典』 第五巻上、茂木和平、2004年10月、8543頁。 
^ 佐々木倫朗著「佐竹氏の陸奥南郷経営―戦国期から統一政権期にかけて―」『歴史人類 第5号』(筑波大学歴史人類学系、1997年3月)49頁以下参照。
^ 美濃守清広については本項目 秋田藩士安島氏安島美濃守清広の節を、丹後守久成については新庄藩士 安島氏安島丹後守久成の節を参照のこと。
^ a b 安島久成については金子務著『ジパング江戸科学史散歩』(河出書房新社2002年) 211頁にも詳しい。
^ a b c なお、佐竹氏の陸奥南郷支配の経緯と、知行宛行を受けた在来の土豪や家臣についての詳細は佐々木倫朗前掲「佐竹氏の陸奥南郷経営―戦国期から統一政権期にかけて―」『歴史人類 第5号』(筑波大学歴史人類学系、1997年3月)50?51頁及び67頁の「文禄四年八月二十八日付高野郡菅家い知行充行奉書目録」の表を参照のこと。
^ 山形県新庄市立図書館編『郷土資料叢書第十輯』「戸沢家中分限帳(二)」53頁参照。
^ 詳細は安島修理亮某の節を参照
^ 福島県では、日本家紋研究会前掲『家紋でわかるあなたの祖先 福島県浜通り地方、 原町、相馬市、いわき市』(日本家紋研究会、2001年)では安島姓の記載があるが福島県の中通り(福島市二本松市郡山市須賀川市白河市など)及び会津地方(会津若松市喜多方市など)の資料には安島姓に関する記載はない。
^ 諸太夫とは本来、親王や摂家、大臣家の家令・家扶のこと。江戸時代以降は五位に叙せられるものをいった。和田英松著、所功校訂『新訂 官職要解』(岩波書店、2006年)301頁及び355頁参照。
^ なお、受領名とは朝廷の正式な官職ではなく、室町時代守護大名が家臣に対して恩賞の一環として官職の私称を許したもの。安島清広が授けられた美濃守という受領名は、本来は従五位下相当の官職で、朝廷の地方官である美濃国国司長官官名のことである。国司の格式としては大国に次ぐ上国であり朝廷の税収が大いに期待された国である。また、安島下野守が名乗る受領名は従五位下相当の国司が任ぜられる上国であり、比較的格式の高い官名であった。また、安島久成の名乗る丹後守については、丹後国の国司の長官に由来する受領名であり、同国は大国、上国の次に位する中国に位し正六位下相当した。江戸時代など時代が下るにつれて従五位下相当として叙任された。官職については和田英松前掲書(岩波書店、2006年)162頁から166頁参照。
^ 詳細は以下 各安島氏の節を参照されたい。
^ a b 笠間藩主 牧野氏の家中について詳述した茨城県立歴史館所蔵の常陸笠間牧野家文書『年数帳』によれば、藩士の姓としてあの行に〔秋山・安堵・粟尾・朝比奈・芥川・秋元・荒木〕〔荒井・浅野・青木・新井・有馬・阿部・安嶋〕と記載されており、この中で安島(安嶋)姓の存在を確認することができる。
^ 安島直円が贈られた従五位とは、“じゅごい”と読み、律令制下では従五位上と下に分けられ、主に修理亮や大膳亮など京官の次官、美濃守や下野守など国司の長官に相当する位であった。従三位以上の朝臣を貴、従五位下以上の朝臣を通貴といいいわゆる貴族に列する位である。江戸時代までは大名や上級旗本、大藩の家老が叙任される位階とされていた。また、安島帯刀の贈られた正四位とは“しょうしい”と読み、律令制下では、正四位上と下にわけられ、主に朝廷の政治に参画する参議中務卿式部卿など八省の長官に相当し、公卿または公卿に準ずる位であった。江戸時代は水戸徳川家の当主、越前藩 越前松平家など徳川将軍家御家門をはじめ、譜代大名筆頭 彦根藩主 井伊氏外様大名では国主以上の加賀藩 前田氏薩摩藩 島津氏仙台藩主 伊達氏のみ叙せられた。安島帯刀への贈位については前掲田尻佐編『贈位諸賢伝』1頁に詳しい。明治時代以降は安島帯刀のように明治維新に功績のあった人物・物故者が叙せられている。
^ 後段、水戸藩士安島氏の節を参照せよ。
^ a b 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』清文堂、2006年12月15日、108頁。ISBN 9784792406172。 
^ 本稿における遠祖とはその家系で存在が確認される最古の祖先をいう。家祖とは、主家により召出され家臣に取りたてられた場合、また、分家が認められ本家と別に主家に奉公することになった場合、その初代を以て家祖と看做した。
^ 佐竹義久は佐竹東家の3代当主。武熊城主、山城守、中務大輔、従五位下。佐竹氏の奥州戦線を指揮、朝鮮出兵でも活躍し関白豊臣秀吉から鹿島郡、真壁郡に6万石を賜るとともに豊臣氏直轄領1千石の代官も務めた。関ヶ原の戦い後、徳川家康から佐竹氏の本領安堵の約を取り付けるものの病死、結局、佐竹氏は秋田藩転封となった。秋田県公文書館蔵佐竹義久筆阿嶋美濃守宛『東義久官途状』(秋田県公文書館整理番号5-24)参照。
^ 佐々木倫朗著「戦国期佐竹家臣団に関する一考察―側近・奉行人層の分析を通じて」大正大学編『大正大学研究論集第38号』(大正大学、2014年)33頁の表1 佐竹氏側近・奉行人発給文書目録(義昭・義重期)番号17の項参照。
^ 佐々木倫朗前掲書(筑波大学歴史人類学系、1997年3月)67頁、佐々木倫朗著『戦国期権力佐竹氏の研究』(思文閣出版2011年) 232頁、233頁参照。なお、常陸大宮市史編さん委員会前掲書(常陸大宮市、1982年)38頁によれば別して堤の内15石、平沢の内15石を含む50石を与えられたとの記録もある。また、秋田県公文書館には『阿嶋美濃守宛授領之判紙写』、『阿嶋美濃守宛和田安房守証文之写』という書状が残されているが、文禄4年に安島清広が所領を授けられた際の証となる書状と思われる。
^ なお、安島清正についても主君 佐竹義久から官途状が発給されており、秋田県公文書館にて保管されている。発給年は不詳であるが、月日については“極7”とあり、12月7日付けと思われる。秋田県公文書館蔵佐竹義久筆安嶋采女介宛『東義久官途状』(秋田県公文書館整理番号5-23)参照。
^ 常陸大宮市史編さん委員会前掲書(常陸太田市、1982年)38頁、石井勘兵衛の記録については秋田県公文書館編『 ⇒系図目録I (PDF) 』(秋田県公文書館、2001年)34頁参照。
^ 仮名とは、正式な名である諱に対して通称的意味を持つ名である。仮名には律令制の官職を人名に模した右京、兵庫などの百官名、官職風の人名として創作された頼母、一学などの東百官、太郎、次郎などのような輩行名まで様々な種類がある。また、“吉兵衛”、“文右衛門”、“林左衛門”などの名は、古代、朝廷が新羅からの九州侵略に備えて東国より派遣した防人たちが兵役満了に際して、五衛府に因んだ名を名乗るようになった風習から生まれた仮名の一種である。
^ 安島文右衛門清長については、常陸大宮市史編さん委員会前掲書(常陸大宮市、1982年)61頁参照。また、秋田藩家蔵文書の中の「佐竹淡路義敞并組下湯沢給人・家臣家蔵文書」において“安島文右衛門”を所蔵者として、安島氏先祖代々の書状の目録が記録されている秋田藩家蔵文書の中に、安島文右衛門を所有者として、佐竹義久から安島清広宛の『東義久官途状』、『和田昭為起請文』、『佐竹家(奉行連署)知行充行状』などの書面の内容等が記録されている。秋田県公文書館編『秋田藩家蔵文書目録』(秋田県公文書館、1997年)11頁参照。
^ 安島兵庫の称した兵庫とは、朝廷の軍政を担う兵部省において武器の製造・管理を担当した兵庫寮に由来する百官名である。なお、安島兵庫の残した書状については秋田県公文書館蔵『安嶋氏系図』、秋田県公文書館蔵『安嶋近代覚書』、秋田県公文書館蔵『安嶋近代之覚書』参照。
^ 秋田県公文書館編『 ⇒系図目録II (PDF) 』(秋田県公文書館、2002年)8頁参照。
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