安島氏
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その後、佐竹義久が陸奥南郷領から鹿島郡に転封されたことに伴い、主君に随って鹿島郡に転じた人物として佐竹東家の家臣 安島修理亮の子 大膳亮がおり、大膳亮は鹿島郡扱に任ぜられ、同地支配を担任する役人となっていることが確認されている[19]

但し、ここでさらに着目すべきことは安島氏の一族が戦国期に活動した陸奥南郷領や鹿島郡にはその後一切土着することなく、むしろ佐竹氏が本領常陸北部一帯、即ち茨城郡新治郡那珂郡久慈郡多賀郡水戸市常陸大宮市大子町ひたちなか市日立市高萩市付近)、陸奥国では磐城郡標葉郡福島県いわき市付近)にかけて分布しているという点であろう[20]。この点は安島氏の主君である佐竹氏の勢力図の変動が関係しているものとみられるが、詳細は不明である[17]

以上のように、安島氏は一定の活躍が認められながらも謎の多い一族ということができるが、その全容を探る上で着目すべき点がいくつかあげられる。まずは、安島氏の一門の多くが美濃守や丹後守などの受領名、即ち国司や修理亮、大膳亮、采女介など諸大夫相当の官職を私称することを許される官途状を授かっていることであり[21]、陸奥国前線の城代を務め、また、恩賞として所領を給付されているなど、一定の地位なり功績のある武将として遇されていたことであろう[22]

さらに、安島氏に関する縁組についても、戦国期から江戸期を通じて、瀬谷城主 人見氏吉田社の田所職 田所氏三河国田原城主 戸田氏の一門など藤原姓との養子縁組が多く、次いで陸奥石川氏の支流 常陸国大窪城主 大窪氏小笠原流出羽国楢岡城主 楢岡氏の一門 吉高氏など清和源氏の家系が多く見られる。姻戚関係についても佐竹氏一門の国安氏、高久城主 高久氏深沢氏など常陸源氏の家系、或いは佐竹氏宿老人見氏や常陸守護代 小野崎氏の一門で常陸国部垂城主・大台城主を務めた小貫氏、同じく常陸守護代 江戸氏の支流で河合城主 川井氏、陸奥南部の上遠野氏など藤原秀郷流の家系、或いは大掾氏の支流 鹿島氏の一門で常陸国立原城主を務めた立原氏など常陸平氏の家系、さらに陸奥国鯨岡館主・湯本城主 鯨岡氏など陸奥国浜通りに勢力を有する海道平氏の一門、さらには飛騨国の元小鷹利城主 牛丸氏などその他の桓武平氏の一族など城主級の有力武家との縁組が多く、一定の家格身分を有したことは認められる。これらの点も安島氏の出自をはじめその全容を知る上で重要な点であるといえる[23]

なお、以下の節では安島氏の一族について詳述する。佐竹家臣たる安島氏を見ていくとその系統は複数存在することが確認されており、大きく分けて、佐竹氏の秋田転封に伴って佐竹氏の家臣または陪臣として存続した系統、没落し流浪の末、一時、常陸国内に領地を得た新庄藩主 戸沢氏に従属した系統、さらに戸沢氏に仕えたものの戸沢氏の出羽転封には随行せず、新たな領主として常陸国に入封した水戸藩主 徳川氏水戸徳川家)に仕官した系統などに分けることができる。さらに、別して江戸時代、笠間藩士として続いた安島氏があるが、これは戦国期の江戸氏の勢力範囲ときわめて近いことから江戸氏家臣たる安島氏の系統であろうか[24]。このうち、戸沢氏に随身した丹後守久成の子隼人の系統からは江戸時代中期の和算家 贈従五位安島萬蔵直円が、また、同じく佐竹義宣の家臣であった安島丹後信勝の系統は水戸徳川家に随身し、その子孫からは幕末の水戸藩家老贈正四位安島帯刀信立らが輩出されている[25]。他にも安島姓を名乗る幕末の志士として安島俊次郎安島鉄次郎義徳安島安などの人物が輩出されている[26]。このほか、水戸藩家老で後の松岡藩主となる中山氏の領内にも郷士として安島氏の存在が確認される。ただし、由来、系図は不明である[27]

なお、安島氏の系図では遠祖の名に〇、家祖を◎を付記した[28]
秋田藩士安島氏

佐竹氏の家臣及び陪臣として存続し秋田転封に従った系統としては、常陸太田市編さん委員会編『佐竹家臣系譜』に安島氏の項があり、佐竹氏に仕える安島氏が数流見える。
1.安島美濃守清広

佐竹家臣の系譜である『諸士系図』に秋田藩主 佐竹左近衛中将義宣の家臣として安島美濃守清広の家系が収録されている。佐竹一門 佐竹東家の佐竹山城守義久の配下であったと見え、天正12年(1584年6月3日、佐竹義久より官途状が下され美濃守の受領名を授けられたと記録されている[13][29]。同年、7月10日には佐竹氏家老の和田安房守昭為から「安嶋美濃守との」との宛名で起請文が発給されている[30]。また、『佐竹義宣家臣知行版物』に文禄4年(1595年8月18日、和田安房守昭為、人見主膳正藤道連署により、安島清広に、陸奥国高野郡赤館城の北、堤の内に25石、城の南、手沢に25石と複数の地に知行相給されたとする記録がある[31]

慶長7年(1602年)、安島氏の記録では清広の子 采女佑清正の代に至り、主君 佐竹義宣に従い秋田に転封に随従するとされる。この時、清正17歳であったという[32]。以後、子孫は出羽国雄勝郡湯沢に住むという[33]

清正の子は清長といい、仮名を文右衛門という[34]。文右衛門清長は石井勘兵衛の女をとし、妻 石井氏との間に嫡男 清久が生まれる[35]

また、秋田県公文書館には、『安嶋近代覚書』、『安嶋近代之覚書』などの史料が保管されているが、これは清信の代の記録である。安島清信は初名を彦之允といい後に羽右衛門に改めるという[36]。 佐竹左中将家臣    佐竹山城守配下 美濃守官途状拝領  采女佑官途状拝領系譜 ◎安島美濃守清広 ―― 采女佑清正 ――― 文右衛門清長 ― 某清久 ― 羽右衛門清信 … 子孫不詳
2.安島某高貞

秋田県公文書館による秋田藩士の『系図目録U』によると、文化2年(1806年7月に安島但見高忠により秋田藩に提出された『安嶋氏系図』の中に、安島高貞以来の系図が確認される。系図が作成されたのは、但見高忠の時代であるが、高貞よりさらに以前の祖先の代に秋田転封したとみられ、それ以前の系図や仕官の時期などは不詳である[37]。   佐竹左少将家臣系譜 ◎安島高貞 ――― 高正 ― 高移 ― 高重 ― 高広 ― 高林 ― 高清 ― 但見高忠 … 子孫不詳
3.安島某高近

また、文化2年(1806年)8月、秋田藩に提出された『三男安蔦氏系図』の中に前項の安島氏の当主 安島高移の二男 高近が分家して成立した家系が記されている。系図が作成されたのは勘七郎高聴の代のことである。仕官後の役職等については不詳である[38]。    佐竹左少将家臣  分家系譜 〇安島高移 ――― ◎高近 ― 高久 ― 高寧 ― 高布 ― 勘七郎高聴 … 子孫不詳
4.安島修理亮某

佐竹氏の陪臣にも安島氏の一族がある。『諸士系図』並びに安島吉兵衛・同主税『系図 佐竹山城家人安島吉兵衛』によれば、佐竹一門 東家当主 佐竹義久の家臣に安島修理亮を祖とする安島氏が見える[13][39]。代々、当安島氏では代々、おもに吉兵衛の仮名が用いられ家督相続時に襲名された。同系図では修理亮については佐竹氏に仕官するとのみ記載があり、その子 大膳亮は、佐竹義久に仕えてその領地である鹿島郡扱などの役人として務めたとある[40]。また、大膳亮の妻は佐竹氏一門にして佐竹東家譜代家臣 国安三河守師親の女であり、妻 国安氏との間に人見紀伊守となる長女、そして嫡男の安島采女が生まれた[41]


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