安土桃山時代
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一方、国内は広域商業が発達し、博多長崎など主要商業都市を豊臣家の直轄地とした[7][8]。諸大名は領国の経営に力を注ぎ、各地で特産物都市が興隆していった。また、秀吉自身は京を活動の拠点とし茶の湯を始めとする文化活動を自らも積極的に行った。また、鉄砲西洋から伝来し、南蛮人との交流が開始された。キリスト教のカトリック教会文化西洋世界の奴隷の存在を日本人が知った。また、カステラなど南蛮料理が食べられるようにになり、タバコが南蛮人の影響で伝来、喫煙文化が誕生した。文禄・慶長の役により明は衰退し、従来の輸入品渡来銭銅銭)に代わり、天正大判など国内独自の金貨銀貨が製造されて広く流通した。文禄・慶長の役の後、陶法・毛皮加工などが帰化した技術者達により発展し、文化は新たな時代を迎えた(桃山文化)。
豊臣時代の終結「江戸幕府」を参照

豊臣政権末期に秀吉遺書体制として浅野長政前田玄以石田三成増田長盛長束正家の5人による五奉行制度(司法担当・宗教担当・行政担当・土木担当・財政担当)を創設した。慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、豊臣家は石田三成を中心とする文治派加藤清正福島正則などの武断派に分裂して五大老の筆頭である徳川家康伏見城で実力者としての頭角を現した。朝鮮遠征軍撤退の和平交渉でも主導権を握り実質的な政権運営者へとのし上がっていった。これに対し石田三成を中心とした反家康勢力が慶長5年(1600年)に全国を二分する関ヶ原の戦いが勃発した。これに勝利した徳川家康は政権の基盤を固め、慶長8年(1603年征夷大将軍に任じられる。これにより安土桃山時代は終わり[9]江戸時代が始まった。
年表

元亀4年(1573年) - 足利義昭が京都から追放されて、室町幕府が事実上滅びる。

天正3年(1575年) - 長篠の戦い→武田勝頼が敗走する。

天正4年(1576年) - 織田信長、安土城を築く。

天正8年(1580年) - 織田信長、顕如を降伏させて、石山本願寺との対決を終わらせる。

天正9年(1582年) - 本能寺の変山崎の戦い明智光秀の謀反も俗に言う三日天下で終わる。

天正9年(1582年) - 清洲会議賤ヶ岳の戦い:織田信長の後継争いで、織田家重臣であった柴田勝家と羽柴秀吉が反目。羽柴秀吉が勝ち、敗れた柴田勝家が自害する。

天正10年(1583年) - 羽柴秀吉が石山本願寺跡地に大坂城を築城する。

天正11年(1584年) - 小牧・長久手の戦い:羽柴秀吉と織田信雄、徳川家康との戦い→和睦。

天正13年(1585年) - 羽柴秀吉、藤原氏を称し関白に就任する。同年四国平定

天正14年(1586年) - 羽柴秀吉、太政大臣となり、豊臣姓を賜る。同年京都に聚楽第を建てて政治的な拠点とする。

天正15年(1587年) - 九州征伐

九州征伐後、博多伴天連追放令を発布する。


天正18年(1590年) - 小田原征伐北条氏が豊臣秀吉に降伏、天下統一天正の地割

文禄元年(1592年) - 豊臣秀吉の唐入り

文禄元年(1592年) - 豊臣秀吉が伏見指月に隠居のための屋敷構を築く。

文禄3年(1594年) - 指月の隠居屋敷を改修し伏見城の築城が本格化。

文禄5年(1596年) - 指月伏見城が完成するが直後の慶長伏見地震で天主が倒壊。木幡山にて新たな築城に着手。

慶長2年(1597年) - 木幡山伏見城が完成する。また、京都にも新たな邸宅の建設を行う。

慶長3年(1598年) - 豊臣秀吉が伏見城で死去する。明征伐が終わり、駐屯軍撤退。

慶長5年(1600年) - 関ヶ原の戦い。前哨戦の伏見城の戦いで伏見城落城。

慶長7年(1602年) - 徳川家康が伏見城を再建。

慶長8年(1603年) - 徳川家康が伏見城で将軍宣下を受け征夷大将軍に就任する。

慶長19年(1614年)- 大坂冬の陣

慶長20年(1615年)- 大坂夏の陣。:豊臣氏の滅亡。元和偃武

桃山文化「桃山文化」も参照

織田信長時代と豊臣秀吉時代文化を秀吉の最後の居城だった伏見城地名をとって、桃山文化と呼んでいる。新鮮味あふれる豪華で壮大な派手な文化であり、新興大名豪商が中心だったとされる。[10]新興の武士勢力や豪商の気風や商人の経済力を反映して、仏教色の少ない現世的な南蛮文化の影響を受けた文化である[11]。都市部において、今井宗久博多島井宗室豪商と呼ばれる新興商人が成長した時代であった[12]

茶の湯が流行し、唐物名物茶道具が珍重された一方で、それへの反抗としてのわび茶も発達した。茶器が大名から家臣への報奨とされたり、茶会が武将と豪商を結ぶなど行事になるなど千利休の存在が政治にも影響した。

特筆すべき点としては、天文18年(1549年)のフランシスコ・ザビエル来日以来の南蛮貿易によってもたらされた南蛮文化の影響が挙げられる。まだ小規模ではあったが、日本が初めて西洋文化と直接(中国などを介さずに、正式な形で)触れ合ったという点で重要である。
絵画濃絵の特徴を良く示す『檜図屏風』狩野永徳日本に到来した南蛮人たち

狩野派の絵師が織田信長、豊臣秀吉などその時々の権力者と結び付いて画壇の中心を占めた。

障壁画:城郭、寺院などの襖、壁、床(とこ)や屏風などに描かれた[13]

濃絵:金箔地に青・緑を彩色。豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図が特徴。

水墨画

風俗画

主な絵師と代表作

濃絵

狩野永徳唐獅子図屏風


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