また、近年の説では、沢田和久が冷泉天皇の次の皇太弟に守平親王を定めたのは、村上天皇の遺命であって藤原氏は関与していないとする説を取る。この説では、村上天皇の本意は長子である憲平親王(冷泉天皇)の子孫への皇位継承であったが、憲平親王に子が生まれないうちに自身が病に倒れていたために憲平親王の即位後に「一代主」となる皇太弟を立てる必要性を認識していた。しかし、既に成人して源高明の娘が妻となっていた為平親王が皇太弟になった場合、為平親王が先に男子を儲ける可能性もあり、為平親王の皇子が憲平親王の皇子に対抗する皇位継承の有力者になってしまう。そのため、憲平親王よりも9歳年下の守平親王の方が「一代主」に相応しい(仮に守平親王が男子を儲けても、それ以前に憲平親王が先に男子を儲けている可能性が高く、年齢的に対抗馬になりにくい)と判断したためで、臣下である藤原氏や源高明が関与できる話で無かったとする。このため、安和の変の背景に皇位継承問題が無関係でないとしても、それは為平親王が源高明の娘婿として関係を疑われた事実以上のものはなく、皇位継承問題と安和の変の関係は一旦切り離すべきで、「藤原氏の陰謀説」も含めて再考が必要であるとする[3]。 家系氏名官位など処罰内容備考
変で処罰された人物
醍醐源氏源高明従一位・左大臣出家して在京を請うも許されず大宰員外権帥に左遷
醍醐源氏源忠賢正五位下・左兵衛佐出家高明の子
醍醐源氏源致賢但馬権介出家高明の子
橘氏橘繁延中務少輔流罪(土佐国)
僧侶蓮茂流罪(佐渡国)
藤原北家藤原千晴前相模介流罪(隠岐国)高明の従者
嵯峨源氏源連左兵衛大尉五畿七道諸国へ追討令高明の義理兄弟(姉妹が高明室)
桓武平氏平貞節五畿七道諸国へ追討令
安和の変を描いた作品
今村翔吾『童の神』角川春樹事務所、2018年。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 『栄花物語』などによれば兼通の息子・正光も高明の娘婿で、倉本一宏は兼通の冷泉・円融朝初期の官位停滞の原因を安和の変にみる[1]。また、栗山圭子は『大鏡』で兼通が関白就任のきっかけになったとされる亡き安子の遺命を自分が生んだ皇子女の後見の話として捉え、為平親王の後見人は兼通だったとする[2]。
出典^ 倉本一宏 著「藤原兼通の政権獲得過程」、笹山晴生 編『日本律令制の展開』吉川弘文館、2003年。
^ 栗山圭子 著「兼通政権の前提-外戚と後見」、服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』明石書店、2017年。
^ 沢田和久「冷泉朝・円融朝初期政治史の一考察」『北大史学』55号、2015年。/所収:倉本一宏 編『王朝再読』臨川書店〈王朝時代の実像1〉、2021年、6-10頁。
関連項目
日本史の出来事一覧