安倍晋三
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病院側は、安倍首相の容体は回復してきているものの退院できる状態ではないとした[注釈 7]。9月21日は安倍の53歳となる誕生日だが、病院で誕生日を迎えることになった[55]。このように安倍首相は退陣まで公務復帰できなかった状況だが、与謝野官房長官は「首相の判断力に支障はない」と内閣総理大臣臨時代理は置く予定はないという方針をとっていた[56]。20日の官房長官会見では「首相は辞任と病気の関係を説明するべき」としていた[57][注釈 8]

9月24日17時、慶應義塾大学病院にて記者会見を行い、自身の健康状態及び退陣に至る経緯について「意志を貫くための基礎体力に限界を感じた」と釈明し、政府・与党、国会関係者並びに日本国民に対して「所信表明演説後の辞意表明という最悪のタイミングで国会を停滞させ、多大な迷惑を掛けたことを深くお詫び申し上げたい」と現在の心境を開陳、謝罪した[58]。さらに、首相としての公務に支障があったにもかかわらず臨時代理を置かなかったことについては「法律にのっとって判断した」としたが、これについては、毎日新聞により、政府内でも批判の声があると報じられた[59]内閣総辞職に際して贈呈された花束を持つ安倍

9月25日、第1次安倍改造内閣最後の閣議に出席し、その後国会へ登院して、衆議院本会議での首班指名選挙にも出席した。第1次安倍改造内閣最後の閣議で、閣僚全員の辞表を取りまとめて内閣総辞職した。安倍は最後の閣議の席上、全閣僚に対して一連の事態に対する謝罪及び閣僚在任に対する謝意を述べた。26日には皇居で行われた福田康夫首相親任式に出席し、正式に内閣総理大臣を退任し再び病院へと戻った。
突然の辞任への反応

安倍は辞任の理由として「テロ特措法の再延長について議論するため民主党小沢代表との党首会談を打診したが、事実上断られ、このまま自身が首相を続けるより新たな首相のもとで進めた方が良い局面になると判断した」「私が総理であることが障害になっている」などとした(小沢は記者会見で「打診を受けたことは1回もない」と否定し、以降も「意見を変える気はない」と明言)。一方、自身の健康への不安のためとする理由も、与謝野馨(当時、内閣官房長官)が同日中会見で述べている。24日の記者会見では本人も健康問題が辞任の理由の一つであることを認めた。

もともと胃腸に持病を抱えており[60]、辞意表明当日の読売新聞・特別号外でも持病に触れられていた。また、辞意表明前日には記者団から体調不良について聞かれ、風邪をひいた旨を返答している[61]。この「胃腸の持病」について、安倍は辞任後の2011年に掲載された『週刊現代』へのインタビューで、特定疾患である「潰瘍性大腸炎」であったことを明かしている[62]

臨時国会が開幕し内政・外交共に重要課題が山積している中で、かつ所信表明演説を行って僅か2日後での退陣表明について、野党側は「無責任の極み」であるなどと批判した[63][64]。与党側でも驚き[65] や批判[66] の声が上がったほか、地方の自民党幹部からも批判が出た[67]

9月13日に朝日新聞社が行った緊急世論調査では、70%の国民が「所信表明すぐ後の辞任は無責任」と回答している[68]

安倍の突然の辞意表明は、日本国外のメディアもトップニュースで「日本の安倍首相がサプライズ辞職」、「プレッシャーに耐えきれなかった」(CNN)などと報じた。欧米諸国の報道でも批判的な意見が多かった[69]
辞任の原因

2007年当時の医師の診断ではカルテ上は「腸炎、または急性腸炎」で、一般に言う「腹痛」であったが、実際には「潰瘍性大腸炎」を患っていた[70]。潰瘍性大腸炎は1973年に特定疾患(2015年からは指定難病)に指定されている。
麻生・与謝野クーデター説
安倍の辞任において、幹事長の麻生太郎と官房長官の与謝野が安倍を辞任表明に追い込んだとする「麻生・与謝野クーデター説」が自民党の新人議員の一部によってメディアを通じて広められた。このクーデター説について与謝野は、9月18日の閣議後の会見において明確に否定した。さらに麻生は9月19日に「事前に安倍首相の辞意を知っていたのは自分だけではない」とし、与謝野も同日「(前幹事長の)中川(秀直)さんは11日(辞任表明の前日)に安倍さんに会っていて、知っていてもおかしくない」と、中川も事前に安倍の辞意を知っていたことを示唆した[71][72]
内閣総理大臣退任後
体調回復と活動の再開

2007年9月27日、慶應義塾大学病院から仮退院し、東京・富ヶ谷の私邸で自宅療養に入った[73]

11月13日、新テロ特措法案の採決を行う衆議院本会議に出席し、賛成票を投じた後、福田康夫首相や公明党の太田昭宏代表へ体調が回復したことを伝えた[74]

2007年末、『産経新聞』のインタビューにて「『美しい国』づくりはまだ始まったばかり」[75] と述べ、2008年からは活動を本格的に再開し「ジワジワと固まりつつある良質な保守基盤をさらに広げていく」[75] と答えている。


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