安倍晋三
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幼いころは野球選手や、テレビを見て刑事になることに憧れていた[6]
学生時代

成蹊小学校3年生の1963年11月、父の晋太郎が落選。このため両親は東京を離れ、選挙区の山口県にいることが多くなった[7]。安倍家は寛信と晋三に家庭教師をつけることとした。翌1964年に東京大学駒場キャンパスで「子ども2人を週3回教えて9千円、食事つき」とのアルバイトの募集を見つけたのが、当時東大駒場寮に住んでいた平沢勝栄だった。平沢は「駒場東大前駅からひと駅で、しかも食事つき。駒場寮の食事はマズかったから、これはいいぞ」と思い、面接を受け、採用された。小学5年生まで2年間、晋三を教えた[5][8]

成蹊中学校・高等学校卒業。高校では地理研究部に所属した[9]成蹊大学法学部政治学科に進み、佐藤竺教授のゼミに所属して行政学を学ぶ[注釈 1]アーチェリー部に所属し、準レギュラーだった[11]。大学へは中古のアルファロメオで通った[12]

1977年3月、成蹊大学卒業[13]。同年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人ばかりで勉強に障害があると判断して通学を止め、イタリア系米国人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った[14]。1978年1月から春季・夏季・秋季と1年間、南カリフォルニア大学に留学しており[15][注釈 2]、政治学の専攻ではなく講座に通学していた。ただし在籍はしたものの学士の資格は得ていない。首相として訪米中に同大学を訪問している[16]
会社員時代

1979年4月に帰国し、神戸製鋼所に入社。本社輸出部に配属される[17]。1980年5月から1981年1月まで加古川製鉄所の工程部工程課に配属された。営業担当が受けた注文の工程管理を担った[18]。そのほか、ニューヨーク事務所、東京本社などで勤務した[19]
政界入り
秘書時代

1982年11月27日、第1次中曽根内閣が成立し、父晋太郎が外務大臣に就任。晋太郎は安倍に自身の秘書官になることを命じた。しかし安倍が拒否したため、晋太郎は神戸製鋼所首脳部に連日電話を入れ、退職させるよう迫った。安倍はほどなくして同社を退職し、大臣秘書官に就任した[17][20]

1986年7月22日、晋太郎が外務大臣を退任。それとともに秘書官を退職。同年10月、森永製菓社長の松崎昭雄の長女で電通社員の昭恵と婚約[21]

1987年5月25日、参議院議員の江島淳が死去。江島の死去に伴う山口県選挙区の補欠選挙に立候補する意思を示したが、宇部市長二木秀夫が出馬を表明したことから父に断念するよう説得され、立候補を見送った[22]。同年6月9日、新高輪プリンスホテルで松崎昭恵と結婚式を挙げた。媒酌人福田赳夫夫妻が務めた[22]
衆議院議員

1991年5月15日、父晋太郎が急死。同年7月8日、安倍は地元後援会拡大会長会議で、晋太郎の跡を継ぎ次期衆院選に立候補することを表明した[23]

1993年6月の第40回衆議院議員総選挙旧山口1区(定数4)から立候補し初当選[注釈 3]。当選後はかつて父が会長を務めた清和政策研究会に所属する(当時の会長は三塚博)[要出典]。

1994年、羽田内閣施政下、社会党の連立離脱を期に野党自民党が社会党との連立政権樹立を目指して作った超党派グループ「リベラル政権を創る会」に参加[24]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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