守護職
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注釈^ 1209年(承元3年)に守護の職務緩怠が問題となり、幕府は調査のため鎌倉近国の守護に補任下文の提出を命じた。この際、千葉成胤は祖父の常胤、三浦義村は父の義澄が与えられた頼朝の下文を提出しており、千葉常胤と三浦義澄が頼朝により下総守護・相模守護に任じられたことがうかがえる(『吾妻鏡』承元3年11月20日、12月15日条)。『源平盛衰記』には富士川の戦いの後に、広常と常胤が上総・下総を頼朝から賜ったとする記述があり、上総広常も上総守護に任じられていたと推測される。
^ 保立道久は『吾妻鏡』の文治2年6月21日条は畿内・西国の守護・惣追捕使は完全に停止された事を意味し、建久の新制移行もその状態が継続した結果、頼朝が最終的に守護を設置したのは「東国二十八ヶ国」に限定されたとする。その守護が設置された「東国二十八ヶ国」は『吾妻鏡』建仁3年8月27日条において、源頼家が息子の一幡に譲ろうとした国々と合致するとするとみる(保立道久『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房、2015年)第6章 鎌倉前期国家における国土分割 (原論文:2008年))。
^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、和泉(後鳥羽上皇支配)、越前、紀伊(後鳥羽上皇支配)
^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、相模(侍所・政所管掌)、
^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、摂津(六波羅探題)、丹波(六波羅探題)、肥前(鎮西探題兼補)
^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、播磨(六波羅探題)、肥前(鎮西探題兼補)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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