うの じゅうきち
宇野 重吉
1955年
本名寺尾 信夫(てらお のぶお)
生年月日 (1914-09-27) 1914年9月27日
没年月日 (1988-01-09) 1988年1月9日(73歳没)
出生地 日本・福井県足羽郡下文殊村(現在の福井市太田町)
死没地 日本・東京都渋谷区
職業俳優
演出家
映画監督
ジャンル舞台
映画
テレビドラマ
活動期間1932年 - 1988年
配偶者あり
著名な家族寺尾聰(長男)
主な作品
テレビドラマ
『黄金の日日』
『峠の群像』映画
『愛妻物語』
『第五福竜丸』
『人間の壁』
『金環蝕』
『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』舞台
『オットーと呼ばれる日本人』
受賞
毎日映画コンクール
助演賞 / 男優助演賞
1948年
『わが生涯のかがやける日』
『破戒』
1959年
『人間の壁』
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宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年〈大正3年〉9月27日 - 1988年〈昭和63年〉1月9日)は、日本の俳優、演出家、映画監督。本名:寺尾 信夫(てらお のぶお)。
宇野は第二次世界大戦前から戦後にかけて長く演劇界をリードしてきた名優の1人であり、滝沢修らと劇団民藝を創設した。飄々とした風貌と軽妙な演技を持ち味とし、『ゴドーを待ちながら』『夕鶴』などの舞台に出演。演出家としても多くの作品を残しており、リアリズムを基調とした近代的な芸を追求した。映画・テレビでも活躍し、主な映画出演作に『愛妻物語』『第五福竜丸』『金環蝕』など。映画監督として4本の作品も発表している。宇野重吉の芸名は、中野重治と鈴木三重吉に由来している。
長男は俳優・ミュージシャンの寺尾聰。 1914年9月27日(日曜日)、福井県足羽郡下文殊村(現在の福井市太田町)に生まれる。生家は農家で裕福だったが、4歳の時に父が亡くなると家運が傾き、母に連れられて福井市に移った[1]。旧制福井中学(現在の福井県立藤島高等学校)に進学するが、学資が続かず3年の1学期で中退。横浜で巡査をしていた次兄を頼っていくが、大不況のため仕事がなく、一旦福井に戻って姉の婚家の機屋で働く[1]。そのうち上京して早稲田工手学校を卒業。この間にマルクス主義の影響を受け、日本大学芸術科に入る[1]。築地小劇場に通ってプロレタリア演劇に感激するうち芝居の世界に入ろうと考える[1]。 1932年、プロレタリア演劇研究所に入所し半年後の1933年5月に滝沢修、久保栄らの東京左翼劇場に参加する[2]。同年、木村荘十二監督の『河向ふの青春』で映画に初出演する。1934年、新協劇団の結成に参加、『どん底』のペペル、『火山灰地』の泉治郎の演技で評判を呼ぶ[1][3]。1940年8月19日、治安維持法違反で投獄されるが、1942年からは日本移動演劇連盟加盟の瑞穂劇団を組織して全国の農村漁村を巡演する[1]。1943年に応召し、ボルネオで終戦を迎えた[3]。 1947年7月28日、滝沢・清水将夫らと第一次民衆芸術劇場(第一次民藝)を創設。しかし。宇野ら幹部が資金稼ぎのために映画出演を行い現場を離れがちであったこと、また、共産党が劇団に介入してきたこと[4]から劇団の中で対立が生じた。
来歴